ロスへ着いた私達親子三人はオンボロ車を購入、再びコロラドを目指した。別に何のあてもある訳ではなかったが、観光牧場時代の友達がいたから相談がてら訪ねた。再会を喜んでくれた彼らは私の職探しを手伝ってくれた。カウボーイでは到底家族を養っていくことは出来なかったから、友達のひきで運よく食品会社へ就職出来たのは大変有難かった。しかしその仕事も数年間であった。
ある時私の大学時代の友人から同窓の先輩を紹介された。彼はわざわざコロラドまで出向いてきて彼の事業の米国市場進出の夢を語った。私も大いに賛同するところあり、よって米国現地法人の設立と経営を依頼されたのでそれから間も無くニューヨークへ引っ越した。大いなる西部の香りなど嗅げるべきもない大都会だが、目標に達するまでは時に回り道も仕方がないと言い聞かせた。だが人間万事塞翁が馬とはよく言ったもので人生何が良くなるか分かったものではない。と言うのはカウボーイだった経験が会社経営でも大いに役に立ったのである。
とは言え最初から物事がうまく行った訳ではない。商品を持って先頭に立ってセールズを始めたが素人ではお客さんも中々相手にしてくれなかった。でもカウボーイ物語を語り始めたら急に態度が変わり、中々風変わりな面白い奴と可愛がられ顧客になってくれたのである。よくある例は事業などで成功し財をなした連中がその延長線上でカウボーイの真似事をし始めるのが普通で、その話は冒頭でも触れた。しかし私のようにカウボーイから生き馬の眼を抜くと言われる程競争の厳しいニューヨークまで来て会社を設立し、商いを始める例は皆無に近いそうである。また私の負けん気も手伝って、カウボーイでも社長になれるということを実証したかった。そう言った観点からすると、経営能力があるかないか分らなかった私に米国市場の開拓をまかせ、賭けてくれた先輩には大いに感謝せずにはおられない。
私は西部からきた男としてフロンティアスピリット(開拓者精神)という言葉を盛んに使った。アメリカ人社員や顧客の心をくすぐる言葉である。お陰様であれよあれよという間に事業は軌道に乗り、設立二年目で黒字、累損も一掃するほどになったのである。社員の99%はアメリカ人、でもこのジョンウエインをヒーローと仰ぐユニークなジャパニーズカウボーイを素直にリーダーとして崇め、一生懸命やってくれた。変わり者というのも時にはプラスに働くこともあるのだろうか。
あらゆる障害を乗り越え、牛の大群をまとめ目的地へ引き連れていくストイックで誠実なカウボーイの生き様が会社経営の一助ともなった。それはあたかも競争の激しい市場の中で戦略を立て戦術を駆使し、全社員を取りまとめ鼓舞しながら会社が立てた目標を毎年の如く達成していく様にも類似していた。その後会社は紆余曲折を経ながらも社員も300人を超えるほどになり、自分で言うのもおこがましいが業界でも異色のカウボーイ社長として知られるまでになったのである。我田引水と言われ様が構わない。道なき所に道を作り森林を開墾し平野に水を引き畑を造成する、かって西部の開拓者達が辿ってきた軌跡である。私の携わった業界は小さいと言え250社がひしめく群雄割拠、関係者なら知らぬものはいないほど著名な城を築けたことは正に幸運という他はない。
長いこと経営の真似事みたいなことをし勿論業績の浮き沈みも経験してきた。でも何時如何なる時でも引き際は潔く、という思いで働いて来た。そして還暦前にはどうしても次の人生の舞台に進みたかった。その機が近ずいて来た。概ね幸せな会社人生であったし能事足れりとまではいかなかったけど、この広大なアメリカ市場に自社のブランド名を浸透させたこと、それはまさに企業活動を通じて自己実現が出来たことの喜び以外の何物でもない。多くの社員やお客様のお陰で自分の人生の履歴書に小さくともキラリと光る星マークをつけていただいた。そのご恩はこれまた終生忘れられるものではない。