私は生来、神社仏閣や教会等を訪れるのは好きである。しかしそれは建築美やそれらが醸し出す内外の雰囲気がとても荘厳且つ静寂然としているからであって、信仰心や宗教心が特にあるからと言うものでもない。ここら辺りは生まれながらのいい加減な性格と言うか生きる姿勢がなす業であって別段気にも止めていない。私は、例えばワインを飲んだら旨い、花を見たら美しい、富士山を見たら感動する、グランドキャニオンへ行けば圧倒される。それだけで終わってしまう。ワインが何処産か、そのいわれはとか、花の名前はとか、富士は何処から何時見るのが最高とか、峡谷をしたから見たらどうか、と言うことなど興味ない。だからスピリチュアルの代表とも言える仏さんも神様も私には縁遠いものであった。
過去形にしているのには訳がある。実はそのような考えが女房の他界とともに微妙に変わり始めたのである。相変わらず多くの人が「寂しくなったね」とか「一人で大丈夫」 とか気にかけてくれるが、私の中では寂しさは1割で一人でいることも段々慣れてきた。しかし後の9割の喪失感を何とかしなければ基本的な解決にはならない。その為には達観と諦観も必要だろう。いやそれ以上に具体的な処方箋の方が効き目がある。私は次にように思うようになって、女房が逝ってからまだ半年とは経っていないが既にかなりの部分、その心の中の空洞は埋まりつつある。
(1) 私は生かされている。後に残されたのは理由がある。女房は私にプロジェクトを与えて逝った。だからそのミッションを完遂するまでは呼んでくれない。一つは彼女の墓守と二人が苦労して咲かせた大事な花としてのこの牧場の維持管理。二つは一人息子の行く末を見届ける。三つはこの牧場をゲストハウスとして多くの友人知人親族に訪ねてもらい楽しんでいただく。四つは老母に再び逆を見せることなかれ。(彼女は既に10年前、私の兄である長男を亡くしている)
(2) 彼女の夫として恥ずかしくない生き方をしていく。だから落ち込んではいられない。
(3) スピリチュアルな自分になることを肯定していく。来世を信じるようにする。そうすることにより、彼女に再び会える。そしてそれ以後も未来永劫一緒に暮らすことが出来る、それも今度は楽しいことばかりの天国で。
実際、このようなものの考え方を取り入れたお陰で心の安寧の度合いは彼女が他界した直後と今とでは雲泥の差があり、これを続けて行くことで私は立ち直られると確信している。(1)と(2)は日々の積み重ねで目に見えた形で効果が現れるからそんなに難しいことではない。けれども(3)はスピリチュアルな分野だから私にとっては大いなる挑戦である。やはりそれは信仰心とか宗教心を持たねば可能にならないのであろうか?今から般若心経や聖書など読まねばならないのだろうか??自問自答しても思うような道筋は見えて来ない。
ある時、こちらでグリーフケアの専門家と話す機会があった。色々なやり取りがあり彼の意見で賛同出来ない部分もあったが基本的に三つのことでほぼ同意出来たのはとてもよかったと思っている。それによって時間はかかるかも知れないが自分独自の方法でこの喪失感を埋め、彼女の死を受け入れ、前に進むことが出来るような気がして来たのである。
(1) 天地創造の神の存在を信じる。いやそう思いつつあると言った方が正しい。例えば都会を離れて、夜、街の明かりが空に照り返さない程度の田舎に行ったとして、全天に星の瞬く夜空を見上げてみよう。また、伊豆半島の西側で夕陽が駿河湾に沈む光景を見ているところを想像してみよう。アメリカの砂漠の真ん中にあるデリンジャー隕石孔の縁に立って周囲を見渡してみよう。アポロ宇宙船で月に行った宇宙飛行士が地球の姿を見たときの気持ちを想像してみよう。自分の存在をはるかに超えた美しさと巨大さをまず感じるだろう。自然の巨大さに圧倒され、そうしたものを作り出した時間の流れに押しつぶされそうに感じ、一方では恐怖、一方では自分がその一部でも触れることができているという不思議な悦びを覚えるであろう。そうした感情を抱かせるものとしての万物、という印象を与えたいときに「森羅万象」という言葉があるが、それは我々の人知を超えた神なるものが創ったと思いたい。
(2) 来世というものは存在する。いやこれもそう思いつつあると言った方が正しい。以前私は来世は存在しない、と考えていた。理由は存在を証明出来ないからである。しかし最近あるかも知れないと思うようになってきた。人間の寿命は、私達の人生は、神に支配されていると思う。寿命とか運命とかは神の存在なくしては考えられない。短命の人、長命の人、苦労して人生を歩む人、楽して人生を歩む人さまざまであるがそれも来世があるから、その来世とこの世を支配している神がいるから、命を支配している神の存在があるから、いつ死んでも同じなのである。来世があるなら、この世は来世のためにあると言えないか?それならなおさらどんなに恵まれない人生を送っても恵まれた人生を送ってもいっしょ。この世も来世も、支配している神は唯一の同じ神だから最終的には帳尻を合わせてくれると思わないか?どのような人生も、その人生は神が私にと決めてくれたた人生だと思う。そうであれば、仕事が終われば、神のおよびがあれば、さっさとこの世にお別れしたいと思う。この世に未練をもっていたら来世にいってもきっと良い結果を生まないと思うのである。
(3) 人は心の中でも生きられる。いやこれもそう思いつつあると言った方が正しい。空気だって、目には見えないけれど存在する。魂だって同じだと思う。でも物理的には、肉体と魂の二元論は、ありえない。肉体が滅びれば、魂も滅びる。当然であり自然のことである。 しかし、魂がこの世に残り続けるか?という意味をこのように捉えれば魂とか霊は存在しよう。故人の精神性を継続させる、考えていたことを死後の世に残し継承させる、と理解するのであれば、それは可能である。例えば、女房だったらこんな時どうするのだろうか?彼女はどう思うんだろうな?と最近私はことある毎に自分の心に問いかける。それは心の中に女房がいて、その彼女に語りかけているからに他ならないだろう。
とは言えこれらのことを実感するのは難しい。ある時似たようなことを母に尋ねたら「そんな難しく考えなくともいい。私の場合は毎朝仏壇の前に座り、今は亡きお前の父、兄、嫁、この3人に語りかけお参りすることで心の安らぎを覚える。そして恙無く毎日を送れるのも彼らが見守ってくれているお陰。その日の終わりに彼らへの感謝をすることで一日が終わる。その繰り返しをしていると、仏や神や来世の存在を信じることが出来るようになる。そして彼らは今尚いつも私の心の中に生きている。」 彼女の言葉に偽りはないだろう。
こちらには仏壇や位牌などない。だから私は和洋折衷ではないが独自の供養の方法を考えねばならなかった。私はこのように思いそれを毎日実践している。
朝日とともに女房がやってくる。彼女の写真に語りかけることで一日が始まる。心の中には彼女がいるから何処へ行くにも何をするのも生前と同じようにいつも一緒。一日の終わり、再び彼女の写真に語りかけ「今日は楽しかったね。また明日おいで」 そう言って愛犬とともに外へでて満天下の星空を眺める。オリオン座の左下方向にひときわ輝く星がある。それが彼女と決めている。おやすみと言って彼女をその星に送る。その後彼女は近くの墓地に降りて来て眠る。その繰り返しであり、人に言ったら笑われるかも知れない。でもそのお陰で最近、私はかってない心の安らぎや安寧を覚えるようになった。これこそまさに信じることで救われる、と言うことなのだと思う。