夫婦と言うもの長年一緒にいるとお互いの性格など長所短所、好きなところ嫌いなところなどよく分る。また相手が何を考えているのか、どうしたいのかと言うことは大体掴めるものである。私は物事は出来るだけ自然にそしてシンプルに考えるようにしている。例えば 「 過ぎ去った過去は変えることが出来ないように、他人を変えようなどとは思わない。」 と同時に 「 未来は変えることが出来るように、自分は変わろうと思えば変えることが出来る。」そんなことを強く感じた出来事が過去にあった。 もう20年くらい前のことであろうか、一時女房が死線をさまよったことがあるが、その時究極的には他人を変えようなどとは恐れ多くて出来ないことを学んだ。
齢を重ねる中で誰もが通らねばならないのは更年期障害とのせめぎ合いである。とりわけ女性の場合はそれが顕著であるが軽い人は殆ど影響を受けないが重症となるとそんな欝の状態が1年も2年も続くことになる。私の女房は後者の類でそれを乗り切るのに大変辛い目にあったのである。抗うつ剤を投入し続けたのだが思わしくなく、彼女亡き後の今だから話すが一度自殺未遂を図ったことがある。幸い隣の奥さんが彼女の素行を毎日頻繁にチェックしていたから大量の睡眠薬を飲んだものの救急車で病院に連れて行き素早く処置をしたから一命は取り留めた。私は会議中で現場には行けなかったが、彼女は息子の写真を抱いて息子のベッドの上で横たわって既に昏睡状態だったそうである。欝になった患者が一番怖いのは世の中の全てを儚んで時に自死を選ぶことである。
彼女は暫く入院したが色々な投薬のせいもあってか、ある日突然急性の腎不全に陥ってしまい、危篤状態が続いたのだが、医師は正確な原因究明のためバイオプシという検査を要求したのだが女房は頑としてそれを拒絶した。詳しいことはわからないのだが何か背中から長い針を挿入しての検査らしく、女房は何故か首を縦に振らず、私や息子が頼むから検査をしてくれと涙を流して懇願したが彼女は頑固だった。彼女の性格柄、肝心なことになると彼女は自分で全てをコントロールしたかったから、最愛の夫や息子の願いさへ聞き入れなかった。それは自分の運命は自分で決める、という強固な意志があったのである。
当然のことで人工透析が始まった。一日おきに4時間ずつ、と言うことで私はその都度会社から病院へ行き彼女の傍で一緒にときを過ごした。最悪の場合彼女は一生透析を受けなければならないだろうと言われたので、私はこれ以上会社に迷惑を掛けるわけにはいかないと思い辞表を書きそれが提出のタイミングを見計らっていた。彼女がこうなったのも運命、そして資金が続く限り彼女の傍にいて面倒を見ていくのも運命。その時は先のことなど一切考えなかった。
しかしこの時も奇跡が起こった。暫くしてから彼女の腎臓が急に働きだしたのである。その時私達3人は手を取り合って大いに喜び、きっと神様の加護のお陰と素直に感謝した。でも同時に彼女に分らないように私は大事なことを息子に言ったことを覚えている。「今回はたまたま運がよくママは命拾いをしたけど、いつの日かもし再びなんらかの重い病にかかった時、この彼女の頑固さが命取りになるかも知れないよ。だから覚悟をしておきなさい。」と。
乳癌の告知から始まって全摘手術そしてもろもろの治療をおこなってきた。彼女は主治医の言うことを良く聞いてその言う通りにやってきたから手術後半年もたったらまた普通の生活に戻ることが出来た。しかし内面的にはもう二度と元の彼女に戻ることはなかった。抗癌剤の所為で暫く吐き気や目眩が続いたがそんなことは彼女にとっては十分耐えうることだった。何が一番辛かったかと言うと、毎晩入浴した後で自分の身体を鏡に写して見る瞬間だった。
彼女の胸部は平らだった。髪の毛は全部抜けて坊主同然だった。薬漬けや運動不足のせいでメタボのような体つきをした彼女の姿がそこにあった。私は何が起こっているのか大体の想像は出来たのでその時は意図的に彼女に近ずかないようにした。しかし浴室から聞こえてくる彼女の嗚咽を聞いてたまらなくなりその中に立ち入り、そして暫くは何も言わずに彼女を抱きしめることしか出来る術はなかった。 「あなた、私はもう女じゃなくなったの。こんなようなら、手術もせず抗癌剤も打たず苦しみながら死んでいった方がましだった。私は癌患者である前に女性でありたかったし、例え死と引き換えになろうとも女性を貫き通したかった。あなたも女でなくなった私を見るのは耐え切れないことでしょう。ゴメンナサイ、許してね。」
私には暫く返す言葉も無かった。彼女の心中察するあまり狼狽している自分がもどかしかった。しかし私はそんな彼女を一生懸命慰め励まそうと試みた。 「心配するな。君がどうしても外面的な容貌を大事にすると言うなら、今後乳房の再建手術をやればいいじゃないか。抗癌剤ももう打ち終えたのだからこれからはまた徐々に頭髪も生えてくるだろう。もう少しの辛抱さ。ただ一つ言っておきたいのは、私にとっては君の内面的な美しさの方が遥かに大事さ。君は今までも今もこれからも私の素晴らしい女房さ。」 暫くすると彼女が少しばかりの微笑みを投げかけたので私は正直ホッとした。
来る日も来る日も私達は同じことの繰り返しをした。しかしそれをすることによって彼女の気持ちも少しずつ和らいでいったので、こう言うプロセスも患者にとっては必要なことなんだなとつくずく思った。かかる背景があったから、2010年の1月に癌再発が見つかった時、私はいよいよ来るべきものが来たかな、とその時は得も言われぬいやな予感がしたのである。恐らく今回は彼女はかって腎不全に陥った時のように頑固になるのではと。
癌細胞の転移は臀部と胸部の骨の一部そして肝臓に見られた。しかし主治医と今後の治療方法を相談した時、彼女はきっぱりと抗癌剤を再度打つことは拒絶した。従って放射線やホルモン治療、および骨の増強剤投与ということになった。肝臓は最新の治療方法で細胞をピンポイントで焼き殺すことが出来たが、骨の治療は厄介だった。5月になって毎回の点滴で変色し数え切れないほどの針の後で膨れ上がった腕の痛みに耐えかねてかどうか真偽の程は分らなかったが、骨の増強剤も拒絶するようになった。医師も看護婦もこれは毎月必ず打たないと駄目です、と言われたが彼女は聞く耳を持たなかった。私も「お願いだから医師の言う通りに打ってくれないか。でないと後々大きな代償を払うかもしれないから。」 そう言ったのだが彼女は「分かっているわ。暫く考えてみる。」 でもそれから3回ほどの点滴を彼女は意図的に回避したのである。
放射線治療やホルモン抑制剤投与は引き続き行われたがそれらは日常生活に影響を与えるものではなかった。7月になって彼女は急にプールに行きたいと言い出した。水泳は彼女が最も好きで得意なスポーツであったが、私は水に浸かるだけだよと頼み彼女もそれに同意したから出かけて行った。しかし、驚いたのはプールに入って暫くしたら泳ぎ出し潜水泳法までもして彼女は楽しんだ。彼女は私にトリックを掛けたのであった。勿論私には言わなかったが、その時彼女は既にそんなに遠くない日に彼岸への旅立ちを選択したのかも知れないと、今思うとそんな気がする。胸部の骨が弱っていることは彼女も先刻承知、そんな条件化で平泳ぎなぞすれば結果はどうなるか分り過ぎる程分っていた筈である。
それでも尚且つ彼女は泳いだ。そして終わった後、「ああこんなに気分よく泳げたのは久し振りのこと。とても楽しかったわ。」 そんなことを言いながら彼女は上機嫌であった。これが彼女にとっては今生で最後の水泳だったのだろう。大きな代償を払わねばならない時が刻々と近ずいていることも彼女にとっては十分に承知だったに違いない。それでも尚且つそうしたのは、自分の寿命と言うものは自分が一番よくしっているらしい。だから死期の足音が近ずくにつれ、自分がこれだけはやりたいと言うことをやり、食べたいものを食べ、行きたい所行くことでこの世に別れを告げるていくのだろう。
今思うとこの時からあの世への旅立ち迄の4ヶ月間、彼女はそれらをことごとく成就していったのである。この水泳も含め、彼女の大好きな沢山の友達を呼んでのホームパーティも催した。近隣の2~3お気に入りのレストランでの食事も楽しんだ。そして水族館が大好きだったからそこへも連れて行った。極め付きは以前述べた碧い海を見るためのカンクーンへの旅であった。彼女の中では既に旅立ちへの選択がなされそれは確固たるものになっていたに違いない。それは癌再発後の抗癌剤を再度打つことを拒絶した時からもう決めていたのであろう。