私はかってニューヨークで現役として活躍していた頃、日本からの経済誌や地方新聞、こちらの業界誌などのインタビューを良く受けたが、その中で私の渡米後の軌跡を最もうまくまとめてくれたのがこちらの日系新聞の記者であった。私は以前の自分史の中では多くのページを割いてそれを辿ったので出来るだけ重複を避ける為、ここではその彼女とのインタビュー記事を紹介したい。何故なら、これから私が話そうとすることを手っ取り早く理解してもらうのには格好のプレリュードだと思うからである。タイトルは少し仰々しいとは思ったが、彼女がつけたのだから文句は言うまい 『米国を愛した日本人カウボーイ』である。
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中学生の頃、初めて我が家に白黒テレビがやって来た。嬉しくて、学校から帰ると毎日のようにテレビをつけて西部劇を観た。果てしなく広い荒野で馬を駆ける、ジョンウエインの姿に釘付けになった。「いつか、俺も彼のようなカウボーイになりたい!」 それが全ての始まりだった。
昨年5月、設立から21年間勤めた日本の某業界最大手メーカーの米国法人の社長を退任し顧問に就いた。21年前、商品のことなど何も知らなかったにもかかわらず法人設立そして経営の大役を任されたのは親会社トップが 「元カウボーイ」 と言う珍しい経歴に惹かれたのがきっかけだ。「世界最大市場のアメリカに自社の販売会社を作って進出、成功したい。夢を実現する為に一緒に働いてくれないか?!」 熱心な説得は3日も続き、彼は奥さんともじっくり話しついにこれを承諾した。 「さあこれから先はどんな人生になるのだろう?」 家族を持ったのを機にカウボーイ生活に別れを告げた。コロラドでアメリカの会社勤めをしていた彼が35歳の時だった。
彼は日本で大学を卒業後、働きながら資金を貯めて27歳で渡米した。幼い頃からの夢だったカウボーイになる為だった。 「給料はなくてもいい、とにかく働かせて欲しい。」 コロラドの牧場を中心に40通を越える手紙を書いた。だが、熱意はあっても英語も満足に話せない、馬にも乗ったことが無い訳の分からぬ一風変わった日本人に牧場主達の反応は冷たかった。ところが何処からも返事がなく途方に暮れていた頃、ある観光牧場主に拾われた。幸いにもオーナーの奥さんが大の親日家であったのである。彼のアメリカでの人生の最初の大きな分岐点は、幸運にも彼女に巡り合ったことである。
憧れのカウボーイへの第一歩。喜び勇んで牧場に向かったが、生まれてこの方馬に乗ったことは一度もない。牧場生活最初の一年は、観光客の宿泊施設の掃除、薪拾い、皿洗い、ベビーシッターなどありとあらゆる仕事をして、その合間合間に馬に乗る練習をした。
ある時、「カウボーイとして認められるには他人と同じことをやっていても駄目。何か違うことをやらねば」 と思い立った。それからはオクラホマのロデオの学校へ行き、暴れ馬を乗りこなし、次はワイオミングの蹄鉄師の学校にも通った。そうこうしているうちに 「あの小さいがガッツのある日本人はこんなことも出来るんか?!」 といつの間にかアメリカ人仲間からいっぱしのカウボーイとして一目を置かれるようになっていた。観光牧場も最盛期になると60人程の従業員がいたがその中で正式なラングラーと呼ばれるカウボーイが5人、雌伏2年西部劇の本場でやっと彼は念願の日本人カウボーイになったのである。
カウボーイだった経験は会社経営でも役立ったことは言うまでもない。当時の日本の製品は二流品のレッテルを貼られていたから小売店は見向きもしてくれなかった。「 製品さえ一度見てくれれば品質は必ず納得してもらえるはず。」 欧州の有力メーカーに負けない価格戦略を立てて自らが熱心に営業の第一線に廻った。何処へ行ってもサンプルを見せる前に追い出され、失意のうちに帰って来ることがしばしばであった。そんな時彼は一計を案じ、思い切って戦術を変えることにした。それは最初に製品とか商売には一切触れずせずに、まずカウボーイ時代の色々な話をはじめたのである。今も昔もカウボーイはアメリカ人にとってはノスタルジアの象徴、まして西部から遥かに離れた東海岸や南部では、格好の話の題材となったのである。
「元カウボーイの風変わりな、それも日本人が製品を売りに来た。」 小売店主や大手チェーンのバイヤー達が興味を示しやっと会ってくれるようになった。そうなると事業はすぐに軌道に乗り設立2年目には黒字化を果たし3年で累損も一掃する程の急成長ペースの会社となったのである。その後事業は紆余曲折を得ながらも社員は300人を超えるような規模となり、今ではこの世界一厳しい競争市場と言われるアメリカで競合300社にも及ぶ中で常にトップ5に名を連ねるような会社に成長したのである。
27歳で渡米した時は 「2~3年で見聞を広めたら帰国するから。」 と両親を説得した。だが、それは嘘。 「最初からアメリカに骨を埋める気持ちで祖国に別れを告げた。心の中ではまさに水盃のつもりだった。」 結果的にはそれ程までに強い決心が憧れのカウボーイになれたし事業の成功にも繋がった。 「私はアメリカ社会での暮らしが長かったし女房が現地人だったので、アメリカ人が何を喜び、何にモチベーションを感じるかと言うことが分かっていた。もちろんカウボーイだった経験も大きかった。カウボーイとは大いなる西部開拓時代の象徴であり、独立心の権化であることを思うとアメリカ人にとっては今尚心の拠り所の一部になっているのかも知れない。」
来年はテキサスの牧場に移住する。彼にとっては渡米以来15回目の転居だ。長い対米生活の間に既に狩猟民族的な生き方が身についてしまったのかも知れない。日本人のような一箇所滞在型の農耕民族的な発想で土地やコミュニティに固執することなく、獲物があるところへとドンドン移っていく。現役引退の準備をすると同時に、人生に於ける青山を見つけたのでそこに終の棲家を構える。彼と彼の家族にとってはテキサスがその地であったのである。 「将来は田舎の牧場で牛や馬を飼ってのんびり暮らそうや。」 30年近く前にアメリカ人の夫人と出逢った時に交わした約束を実現させる。彼にとって牛の飼育は初めての挑戦 「今すごく燃えているんです。」
人生は一度だけ。そう思って色々なことに挑戦してきた。「ここにきて再び牧場に帰ってジョンウエインになれるとはね。少年の頃の夢は今も健在ですよ。」 目を輝かせながらそう語った彼とカウボーイハットをかぶってテキサスの広野を駆け巡る彼のイメージが重ねあったように思えた。人生色々、しかし彼のそれはユニークさでは他の引けを取らないものであることは間違いない。
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タイトルの 『永久に咲く花』 と言うのは女房と私が一緒になって長い間苦労して咲かせた花、この小さくともキラリと光る綺麗な花が何時何時までも枯れることなく咲き続けて行って欲しいことを願いつつ、徒然なるままにつずったのがこの拙著である。彼女との日々や思い出が全編を覆いつくしているが、彼女は昔も今もこれからも私の人生に於ける主演女優、だから彼女なしの私の人生のドラマは決して成り立たないのである。