この旅が私にとってはとても辛く悲しく感傷的になるだろうことは出かける前に容易に想像出来ることであった。しかし、生前女房とした約束を果たさねば一つの区切りがつかず、これ以上前に進んで行けない事も分かっていた。
南部のルイジアナ州にあるジャズで有名なニューオールリンズから北西に車で1時間くらい行くと、そこにバトンルージと言う街がある。多くの日本人はこの名前を覚えていることだろう。そう、かって服部君と言う留学生がハローウィーンの時に誤射され命を落とした所である。しかしだからと言って別に恐ろしいこともない、ルイジアナ州立大学もある閑静でフレンドリーな街である。そこには女房の両親が住んでいたから、私達は今まで数え切れない程訪ねた所でもあった。
既に彼女の両親は亡く、彼らはその街の墓地に眠っている。生前の約束と言うのはこうである。どちらが先に逝っても残ったものがその供養を兼ねてまず本体は今住んでいるこの牧場の近くにある街の墓地へ埋葬、形見(毛髪と爪)としての小箱は3つ。一つは日本にある私の先祖代々のお墓へ、一つは彼女の両親が眠るお墓へ、そして最後の一つは二人がこよなく愛したドリームランドとも言えるこの牧場の敷地内に埋めるということであった。
日本的に言えば分骨ということになるだろうが、こちらは土葬が主流、だからこのような形で二人の思い出の地に其々を埋葬することにしたのである。馬鹿げたセレモニーかも知れないがそうすることで私達二人は安らかな永眠が果たせると信じて来たのである。私が死んだら全く同じことをしてくれと既に息子には依頼してある。この世であろうがあの世であろうが彼女が行くところは私も一緒に。夫婦の愛は永遠である。
片道700キロ、車で休みなく走っても7時間はかかる。幸いバトンルージの近くに女房の従兄妹が住んでいるので宿の心配はいらなかった。私は牧場主に相応しくピックアップトラックを運転して行くことにした。勿論乗用車もあったがその方が彼女も喜ぶだろうと思ったからである。ところが運転し始めてから私は得も言われぬ寂寞感に襲われ始めたのである。何故かと言うと、今までかの地に一人で行ったことはなく常に女房と一緒であったからそれが飛行機であれ車であれいつも隣には彼女の存在があった。しかし今回は自分一人、どうしようもない焦燥感と言うかやるせない気持ちが凌駕し始めた。
多くの見覚えのある風景に遭遇した。彼女といつも立ち寄ったサービスエリアで一人食事をした。
不思議と彼女と交わした会話が鮮明に蘇ってくる。恰もそこに彼女がいるような錯覚に襲われた。気がついたら一人の自分が運転している、一人の自分がレストランで食事をしている。既に大部分克服したと思っていた喪失感が再び頭を持ち上げ始めて来たのである。ああ、こんなことでバトンルージまで行けるんだろうか、下手をしたら忘れかけていた悲しみや辛さで自分を見失ってしまうんではないかとさへ思われた。でもようやくのこと従兄妹の家に辿り着き、再会を祝しアルコールを注ぎ込んだら、そんな感傷は一気に吹き飛んだのである。
あくる日、私は一人で墓地に出かけた。ここを訪れるのはこれで3度目、恐らくこれが最後になるであろう。1度目は彼女の父親を埋葬に来た時、2度目は母親、それ以外は訪れていない。アメリカの場合、墓地がある街に住まない限りまず再び訪れることはない。日本のような「墓参り」と言う発想があまりないのか、あるいは人は死んだら天に召されると信じているが故にあえて墓地まで行かなくとも何時でも語り合えると思っているからでろうか。まして何回忌だとか言って坊主を儲けさせるような習慣は一切ないから、こちらでは人は死んだらそれ以降は手間も費用も全然かからないから合理的でいかにもアメリカらしいと変に感心するのである。
広い公園墓地なのでおぼろげなる記憶を辿っての場所探しだったので時間がかかった。しかしあちらこちらぐるぐる回っているうちに見覚えのある場所に来て、墓石に掘られた名前を見て彼女の両親のもであることが分かった。誰も訪れることがないからやはり荒れ果てていた。私は墓石の周りの雑草を抜いたり落ち葉を取り払ったりした後で小箱がが収まるくらいの小さな穴を掘った。そしてあらかじめ持ってきた花を飾り、小箱を優しく両手で埋めてやった。
一連の作業の間、私は女房はもちろんのこと義理の父母にも一生懸命話しかけた。この世で幸運にもこの家族に巡り会えたこと、家族の一員として快く迎えてもらい付き合いをしてくれたこと、この家族のお蔭で今の自分があること、いくら感謝しても感謝しきれるものではなかったが、そうすることで私は一つの区切りをつけたかった。
かれこれ1時間くらいの時を過ごしたであろうか?その間というもの私は嗚咽をしたり、惜しげもなく大粒の涙が頬を伝い流れ落ちるのを拭おうともしなかった。墓石の前に跪いて辺りかまわず泣いている初老の男、傍から見たら異様な光景に映ったことであろう。私は自然に任せ納得のいくまで涙を流した。そんなことはここへ来る前からわかっていたことであったが、それは私にとっても通過しなければならない儀式でもあったのである。私は素直になって泣けた自分は、やはり優しくて温かい心の持ち主なんだな、ということが再確認出来て内心嬉しかった。いい涙を流した後の気分は爽快となってつくずくここへ来て私なりの儀式を終えてよかったと思えたのである、。
前述したように、もう再びこの地を訪れることはないであろう。そう思うとたまらなく愛おしさが募ってきたが、前に進むことが自分に課せられたことと思い、後ろ髪を引きずられながらも墓地を後にした。そして折角ここまで来たんだから、この街の思い出の場所に立ち寄っていこうと思った。両親がかって住んでいた家、私達も数え切れないほど訪ねた家は既に人手に渡っていたため中に入ることは出来なかったが遠くから眺めることによって在りし日の思い出に浸った。庭の手入れもいい加減、ペンキも一部剥げかっての美しい家の雰囲気には程遠く寂しい気もしたが、それは致し方ないことであろう。日本の唱歌「故郷の廃家」は私の好きな歌の一つであるが、そんな情景を思い出し、何故か感無量になったのである。
ミシシッピー河のほとりにあるこの街での思い出は尽きなかった。しかし行く先々で私は激しい喪失感を覚えた。当たり前なことではあるが、もうこれが最後かと思うと敢えてそのような行動を取らざるをえなかったことも事実。まるでサディストのようになった自分がそこにいた。この世で再び会うことの出来ない義父母と女房、彼らと共に楽しんだこの街。私は一生懸命その想い出を心の中に足跡として残そうとの作業であった。しかしいつまでも際限のない感傷に浸っているわけにはいかなかった。そうする為にはこの街を一刻も早く離れなければならないと思った。
私と女房は両親への訪問が終わり帰途につくときにいつもミシシッピー河にまたがる長くて大きな鉄橋を渡った。その時に、いつも「また来るからね」とこの大河に語りかけた。そして橋を渡り終えたらもう後ろを振り向かず、また元の生活へ戻っていったものである。だから私も鉄橋を渡ることで一つの大きな仕事を終えようとした。
橋を渡り終えた時今度ばかりは後ろを振り返った。バトンルージとの今生の別れである。私の長い人生の中で、この街の果たした役割は決して小さくない。これで形だけでも女房は再び両親に抱かれて眠ることが出来るであろう。いつの日か私も彼らの所へ行くことになる。しかしその時の私は息子に小箱の中に入れられ、彼に連れられてミシシッピー河を渡ることになるだろう。「バトンルージよ、それまでさようなら」
そしてこれまた最後のセンチメンタルジャーニーとしたい。彼女との思い出が一杯詰まった場所にはもう金輪際一人では行かないと決めた。連れ合いを亡くした多くの人達はかって共に行ったところを訪れ邂逅すると言う。人それぞれ、私は臆病者なのかも知れないがそれでいいと思っている。