いよいよ最後になってしまった。これで今までの人生の復習をし終えたことで感無量の思いがする。人生死ぬまで勉強と思わば、これからも続く人生の予習もしなければならないだろう。
今まで書いてきた自分史は殆ど自分の言葉で語ってきた。しかし、還暦を過ぎた今、これからの人生を如何に過ごすかということを考える時、たまたまかの小説家・五木寛之のベストセラーから生まれた流行語「林住期」という言葉に出会い大いに感銘を受けた。全く持って同感、暫くは彼の人生に対する姿勢を引用したい。
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もともとは古代インドで人生を4つの時期に分けて考えていたことに基づく。生まれてから25歳までが「学生(がくしょう)期」で、学習し体験を積む時期。25歳から50歳までが「家住期」で就職し結婚し、家庭を築く時期。50歳から75歳が「林住期」で人生でもっとも充実した時期で本当にしたいことをする時期なのだという。金のために何かをするのではなく、金のためにはなにもせず、旅をする。夫婦は愛情ではなく友情を育む時期である。そして最後は75歳からの「遊行期」。旅に出て自分は何者かということを見極める時期である。五木はこの「林住期」こそ人生のピークの時期であり、この時期を充実した気持ちで過ごしてほしいとしている。
「林住期」こそ人生のピークであるという考えは無謀だろうか。私はそうは思わない。前半の50年は、世のため人のために働いた。50歳から75歳までの25年間、後半生こそ人間が真に人間らしく、みずからの生き甲斐を求めて生きる季節ではないのか?!林住期こそジャンプの季節、人生のクライマックスである。
日本では初老とか老年と呼び、なんとなく暗い。近づいてくる死を待てというのだろうか。吉田兼好は次のように言った。「死は前よりもきたらず」つまり、死は、前方から徐々に近づいてくるのではなく、「かねてうしろに迫れり」背後からぽんと肩をたたかれ、不意に訪れるものだ。
人はみな生きるために働いている。でも、よく考えてみれば、生きることが目的で、働くことは手段であるはずだ。ところが、働き蜂の日本人は、働くことが目的となって、よりよく生きていない。 家庭をつくり、子供を育て上げた後は、せめて好きな仕事をして生涯を終えたい。一度、リセットしてみたらどうであろうか。
人生80年。もっと、長生きになるかもしれない。と、すると人は生きるためにもエネルギーが必要だが、死ぬときもエネルギーが必要なのかもしれない。だからといって、生涯をなすべきこともなく、雑事に追われながら死にたくはないものだ。自分が本当にやりたかったことは何なのか問いかける時期が、だいたいこの林住期(りんじゅうき)にさしかかる人だと言われている。
それまでは、あまりの忙しさに考える余裕もなかったに違いない。林住期にさしかかった人は、生活の足しにならないようなことを真剣に考えてみるのも悪くない。林住期は、時間を取りもどす季節だ。林住期は、人生におけるジャンプであり、離陸の季節でもある。これまで、たくわえてきた体力、気力、経験、キャリア、能力、センスなど自分が磨いてきたものを土台にしてジャンプすることをお勧めする。
林住期に生きる人間は、まず独りになることが必要だ。人脈、地脈を徐々に簡素化していこう。人生に必要なものは、じつは驚くほど少ない。1人の友と、1冊の本と、1つの思い出があれば、それでいい・・・と言った人もいる。
自分を見つめるだけではいけない。林住期は相手をみつめ、全人間的にそれを理解し、受け入れる時期でもある。学生期のあいだは恋愛中心だ。家住期になれば夫婦の愛をはぐくむ。林住期は、恋人でも、夫でも妻でもない、一個の人間として相手と向き合うことも考えなければならない。ばらばらに暮らしても、二人の結びつきをさらに深めていくことも可能だ。
世間では、老いるということが、不快な現象のように語られる。それに対する切ない反抗が「アンチエイジング」などという表現だ。団塊の世代が、国民の最大グループとして登場しようとしている。大量の「ジジイ」や「ジッちゃん」が出てくるのだ。
「林住期」に属する団塊の世代こそが、この国の文化と精神の成就の担い手になる。 世の中への奉仕は尊い義務ではある。「家住期」において他人のために献身する義務は十分果たしてきたはずだ。こんどはまさに自己本来の人生に向き合うべきだ。
1人の人間としてこの世に生まれて来たこと自体、実は奇跡的なことである。それほど希有で、貴重な機会を得た私たちは、その自己に対しての義務を果たさないといけないのだ。本来の自己を生かそう。自分をみつめよう。心が求める生き方をしよう。
世の中には、今の仕事が死ぬほど好きな人がいる。定年制なんて冗談じゃないという人もいる。一生、学問を愛して書斎で暮らす人もいる。定年でやむをえず職を離れてもできることならずっとその周辺で生きたいという専門家もいる。しかし、一方では、なにかこれまでできなかったことを、やってみようと願う人もいる。
働いている人は誰もがやがて60歳を迎える「林住期」である。好きでやっていた仕事なら、そのまま続けるのもよい。本当は好きとはいえなかった仕事なら、リセットして少年のころの夢を追うのもいいだろう。「林住期」という第三の人生を心ゆくまで生きるのが人間らしい生き方なのだから。日本人はまじめに考えすぎる。「林住期」に何かを始めるのは「必要」だから始めるのではない。始めるきっかけは、「必要」ではなく「興味」だ。
ある時80歳になったのを機に奥さんを残して自転車で日本一周の旅に出た人がいた。彼はもう十二分に社会に貢献し市民としての義務を果たし、そして一個人としての時間を持つため家を出た。まさに「林住期」を生きた人である。
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私はどちらかというと乱読タイプであるからどんなものでも読む。しかしこの「林住期」に関する記事ほど感銘を受けたことは無い。私に残されたこれからの人生、かくありたいと願う。人生を4期に分けて考えるのはこの例だけではない。
人生を四季に例えるなら、実りの秋が終って今は冬場に差し掛かっているのかも知れない。何となく寒々しい感じがするが、炬燵の中で暖ったまりながら外で静かに降る雪景色を眺めていると思えば気持ちいい。うららかだった春、全てに激しかった夏、多くのものが熟した秋、そういった人生を時に邂逅するのも悪くない。
人生を起承転結で例えるなら、20才までの未成年、43才までの青年、66才までの成年、それ以降は熟年でありそしてその最後の何年かの思うように動けなくなった期間、それが老年であるという見方もある。ならば健康で動けるうちは老いの二字などあまり考えず、人生の終章を凛としてさわやかに歩んで行きたい。
人生を時計の針に例えるなら、今は午後三時を廻った頃かも知れない。歳を取ると確かに身体は弱くなるし物忘れもするようになる。しかし無常ということや侘しさ、寂しさ、儚さを実感出来るようになることは悪いことではない。毎日毎日、一瞬一瞬を大切に生きようとする気持ちにつながるからである。一生懸命だがあくせくしない生き方が、日没が近ずいてきた“午後の人生”に相応しいのではないだろうか?!
人生を競馬に例えるなら、今は第四コーナーを廻った辺りかも知れない。これからホームストレッチに差し掛かる。ひと夫々にゴールラインは異なるが人生の勝ち馬で終わろうとするならばゴールまで疾走しなければならない。今まで走ってきた人生でよれよれになり、疲れ果て青息吐息でやっとこさ駆け込む馬も多い。第四コーナーまで余力を持って走ってきた馬は最後のムチを入れることで颯爽とゴールを駆け抜けていくことが出来る。これから如何に過ごすかがどんなに大切なことなのか、競馬から学ぶことも多い。
例えば80歳で人生を全うする人はこんな風に思って逝くのではないだろうか?! 「振り返れば一夜限りの心地して、夢の八十路を辿り来しかな」人生ってこんなもんだろう。例え100年生きたって死ぬ時は一夜の夢のような一生なんだろう。であるならば残りの人生、己の気のむくままに生きることでいい夢を見ながら黄泉の国に旅立って行きたいものである。