嵐山の渡月橋の見える川べりに小さな湯豆腐屋がある。学生時代京都を訪ねるたびにそこまで足を伸ばし名物料理の湯豆腐を食べに行ったが、何故かその辺りの雰囲気に心を癒された自分を思い出す。彼女と来たのもこれでもう七度目となるが、二人とも妙に気に入っていて古都をあちらこちら散策しても何故か最後はここでひと時を過ごすことが当然のようになってしまった。でも今回は思惑があり、小部屋で二人きりになりたかった。
「ついて来るか?」若干戸惑う彼女の表情が伺われ暫しの沈黙が続いた。しかる後彼女はおもむろに口を開いて 「あなたのお邪魔にならないのであれば。。。。」と恥ずかしそうに言った。湯豆腐が煮え立っている。私は彼女の盃にも酒を注ぐとお互いそれを持ち上げ乾杯の仕草をして飲み干した。それは二人だけの固めの盃でもあった。
彼女の家は京都と大阪の中間くらいにあったから私達にとって京都はもってこいの逢引の場所であった。彼女はそこから道頓堀にある支店まで通勤している。同期入社であったが高卒の為、4つ程年下だった。入社して一ヶ月の研修中に同期の男女で数回飲み会をしたものの、彼女は物静かで目立たない存在だったのであまり気にも留めなかった。可愛い子だなとは思ったがまだ餓鬼っぽさが残っていた。それよりも当時は連夜の如くアルサロのオネエチャン達とふざけている方が遥かに楽しかった。
現場勤めを始めてから数年がたった。彼女は支店の資材部に所属していたがあるときから南部一帯にある現場の窓口となったので、それを機会に私達は電話でよく話しをするようになった。でもそれだけのこと。何故ならもう二度も心に大きな傷跡を作ってしまったのでそれらが癒えるまで暫く女性はお預け、と自分に言い聞かせていたのである。
たまたま書類を持って支店を訪ねる必要があったので、その夜は久し振りにミナミの夜を徘徊しようと思った。だが急遽設計変更をせざるを得ない事態に陥った。ついでだからと資材部に立ち寄った時、暫く見ないうちにすっかり大人びた魅惑的な彼女がそこにいて内心びっくりした。20才を過ぎたばかりの女性というのは僅かな間にこんなにも変わるものか、というのがその時の強烈な印象だった。とともにまた例の禁断症状が出て来たのである。
私はラグビーをやってきたから逃げ足は速かったが、実は決断も早い。別の部署に行ってから早速彼女に社内電話をかけ、仕事が終ってからの夕食を誘ったのである。彼女も積もる話があったようだし二つ返事でデートが成立した。道頓堀のフグ料理で飲む酒は旨かった。二時間ほどであったが二人はお互い喋るまくって入社以来のタイムラグを一気に縮めたのである。いい女になったな、私は彼女に解らないように呟いた。
月一回の休みを利用して出来るだけ彼女と会うようにした。二人で訪ねる京都はいつも優しく美しく時に憂いを含んでいた。何故か失恋の痛手を癒そうとするにはもってこいの街らしかったが(当時爆発的に流行った歌、京都慕情、京都の恋、女ひとり、みなその類である。)恋の階段を昇って行く二人には加茂川の流れは清らかで眩しかった。
しかし、その頃から私の心に夏の積乱雲の如く高揚してくるものがあった。社会人となってから4年、決断の時期が迫っていた。おぼろげながらではあるが若い頃から思い続けてきたアメリカへの憧憬が日を増す毎に自分の背中を強く押し始めたのである。しかし何のあてがあるわけでもなく唯々、無性に行きたくなったのである。それもやり直しのきく若いうちに渡りたかった。私は尾崎士郎の人生劇場の中でのセリフをご誓文のように大事にしている。「 情熱が理屈もなしに燃え上がりほとばしり出る所が男の死に場所である。」私の情熱の対象は海の向こうの新天地に移ったのである。
それからというもの彼女に会う度に私は自分の夢や二人の将来について熱っぽく語りかけた。何の保証も無い見知らぬ土地に徒手空拳で行くことの無謀さは痛い程解ってはいたが希望と期待と挑戦の言葉が若い二人の心の中で凌駕した。先ず私が渡米し、しかる後生活にある程度の目鼻がついた時点で彼女を呼び寄せることになった。もちろんこんな形での結婚をお互いの家族が許す筈がなかったので二人には最悪駆け落ちという手段を取らねばならないだろうとの暗黙の了解があった。
私が渡米した数ヶ月後、双方の家族に反対されるのを覚悟で婚約を発表したが、予想を大きく裏切って逆に祝福されたから私達は正直拍子抜けしてしまった。私は日本にいなかったが、ことは一気に進展し結納まで済ませたとの知らせに驚くとともに、こんなのでいいんだろうか?と心の片隅で一抹の不安がよぎるのを否定出来なかった。
しかし、私の夢見た理想のアメリカと現実のそれとの乖離はあまりにも大き過ぎ愕然とした日々が続いた。時が経つにつれて私の心の中で拡がって行くのは絶望感と挫折感だけであった。言葉は解らない、知人友人はいない、収入もない、未来への展望もない。。。。唯一確かだったものは、観光牧場の鄙びた奴隷小屋みたいな所で只働きをして何とか息をしているだけの自分がいたことだけであった。
将来へのほんの少しの光明さへ見えぬ日々はまさに日暮れて道遠しという言葉がぴったりであった。現状の打破が果たせぬまま徒に彼女を引っ張り続けていいものかどうかとの葛藤が心の中で始まったのはこの頃である。二人の愛が大きく深く強いものであるのなら艱難辛苦を共にしそれを乗り越えて行くのが夫婦というもの、そう言う思いもあった。しかし、彼女を将来的にも幸せに出来るのかとの度々の自問に、私の自信は急速に萎んでいったのである。
己の結婚や人生についての甘さに対して私は押しつぶされそうになった。自分の我儘や身勝手さから彼女まで巻き込んで不幸せにすることは決して許されることではなかった。ある日私は、まさに断腸の思いで彼女に婚約の解消を願いでたのである。当時の国際電話は途中途切れたりエコーがかかったりして自分の思う胸のうちがうまく伝わらないようなもどかしさがあったが、唯々平謝りに謝るしか術はなかった。そんなことで許されるものではなかったことは痛い程承知していたので私は大きな罪の意識に苛まされ電話口で打ちひしがれた。
私からの一連の説明を冷静に聞いていた彼女は、気丈夫な女性であった。未練がましいことを一切言わなかった彼女だが、最後の言葉は我が生ある限り忘れようにも忘られぬものだった。「あなたがそうして欲しいというのであれば私は従います。結果的には実現しなかったけど暫しの間でもいい夢を見させていただいてありがとうございました。」健気過ぎる程の彼女であった。受話器を置いた瞬間、私は大粒な涙が止めどもなく流れ落ちるのを禁じ得なかった。
またまた両親の期待を大きく裏切ってしまった。だがそんなことより彼女の心を際限なく傷つけてしまったことに、私はこれからどのような償いをしていけばいいのだろうか?!私の人生後にも先にも過程自責の念にかられ悔恨の情を抱いたことはなかった。全ては私の責任であったが、男と女の関係を結ぶのは結婚するまで待とうね、という古風な考えをお互い尊重し合ったことが唯一の救いと言えば救いであった。とは言え、自分の犯した過ち、そして彼女への償いの気持ちは終生重い十字架として背負っていかなければならないだろうと思った。
それから10年位の月日が流れた。ある日老母は聞き覚えのある声を耳にした。彼女は、たまたま社員旅行で近くまできたからついつい懐かしくなって失礼とは思いながら電話をしましたとのことだった。老母と彼女は初めて会った瞬間から気心が合ったから、僅か数分のことながらお互い感動の会話だったらしい。
「 息子さんはその後、お元気でしょうか?」
「 はい、お陰様で。でももう帰って来ないでしょう。アメリカ人の嫁と一緒になって、今は一人息子がいます。」
「 幸せにお暮らしのようで安堵しました。」
「 あなたもお子さんがいらっしゃるのでしょう?」
「 いいえ、いまだ良縁に恵まれず一人暮らしです。」
「 ごめんなさいね、あの馬鹿息子の所為で。。。。」
「 私の事はご心配いりません。それよりお母さん、どうか丈夫で長生きして下さいね。」
その時も尚、老母のことをお母さんと呼んだ彼女。私の所為で人生の歯車が狂ってしまったからであるが、本来なら嫁姑の間柄となる二人だった。後日老母からこの話を聞いた時、私の小さな胸は張り裂けんばかりであった。