人生も第4コーナーに差し掛かってくると周りに展開する景色も変わってくる。我々はよく人生を四季に例える。私が辿ってきた人生はどんなものであったのだろうか!?光輝きうららかだった春、全てに激しかった夏、多くのものが熟した秋、今は実りの秋が終わってこれからは冬支度といったところだろう。最愛の連れ合いも逝ってしまったからかって程人生に充実感は覚えない。まあそれも仕方ないこと、掛け替えのないパートナーであっただけに余計その思いは強い。とは言えこれから間違いなくやって来る冬のことを思うと何となく寒々しい感じがしないでもない。だがものは考えよう。もうあまり無茶なことはせず、これからは炬燵の中で暖まりながら外で静かに降る雪景色を眺めながら雪見酒としゃれ込もうと思っている。
人生65年、今迄はあまり後ろを振り向くことをせずただただ前を向いて突っ走ってきた。多くの人達が通過するように、私もこれまでに幾重もの山や谷を登り下りしてきたが、その度にありとあらゆる体験がモザイクの如く織り成した人生であったように思う。あっちこっちで道草も大分してきたが、そのお陰でエスカレーターに乗ったりストレートに人生を歩んできた連中では味わうことの出来ない止まり木の効用と言うか価値を発見出来たことも、今で思えば貴重な体験であったなあと邂逅することしきりである。
若い頃、いやつい最近まで私は過去を振り返り感傷に耽ったり後悔したり古きよき日を懐旧したりすることは年寄りのすることだと思ってきた。若い人達の人生は先行きが長く希望や期待に胸が膨らむ、一方年寄りのそれは過ぎ去った過去の部分がどんどん長くなり、老い先短いとなると必然的に過去への邂逅や郷愁が多くなったとしても不思議はないだろう。そう言う私も気だけは相変わらず青年であるも気がつけばいつの間にか前期高齢者に分類されてしまう歳になってしまった。だからと言うわけではないが、これからはあまりつっぱることなく素直に後ろを振り返り、懐旧や郷愁や邂逅と言った『お年寄りの特権』 を大いに取り入れて行こうと思っている。
そのように思うようになった最大の要因はやはり女房とのことである。既に黄泉の国の人になってしまった彼女は、もう帰ってくることはない。私にとっては、今も、これからも彼女のいない人生を過ごしていかなければならない。彼女のいない人生など考えられない、と青年期恋をする度にそんな極論に陥ったことがよくあったが、所詮は相手あってのこと、失恋しても失恋させても時の経過がそういったものを風化して行ってくれた。また強いてそう言った所謂「昔の女」に再会しようと思えば出来ないこともなかった。
しかし35年間連れ添った女房は実際もうこの世にはいないのだから、どんなに再会を望んでも叶えられるものではない。しかし彼女をこれからも感じて行こうと思うと、過去を振り返り彼女との数え切れない程の想い出を手繰り寄せそれを蘇らせることでのみ実現出来るということが分かったのである。誰かが「人間歳を取ったら面影だけででも生きていけるものだよ」と言っていたのを思い出した。何か安っぽい少女小説のような気がしないでもないが、私も折に触れ女房との想い出に浸る度に彼女の面影が私の心を凌駕し得も言えぬ安らぎを与えてくれることを知った。
私にとって彼女はとてつもなく大きなそして深く重い存在であったからたとえ夢の中でも再会出来たらと常に思っている。周知の通リ夢には2種類ある。一つは睡眠中に見る夢、もう一つは起きている時に見る夢である。私達は一緒になる時、二人の共通の夢を語り合った。そしてそれが実現の為一生懸命頑張って来た。その暁に「いつの日か大いなる西部の片隅で例え小さくともいいから牧場を取得し、大自然の中動物達とともにのんびり暮らしましょう。」 という夢を実現することが出来た。
永久の誓いを交わしてから30年の月日がかかった。勿論私達の努力もあったのだろうが、誠に運が良かったと言わざるを得ない。何故ならこの世にあまたいるカップルのうち如何ほどの夫婦が結婚当初に抱いた夢を実現出来るのであろうか?!恐らくそんなに多くではあるまい。だから私達は「起きている時に見る夢」の数少ない具現者であった。そしてそのご褒美として願わくば彼の地で二人して共にゆっくりと楽しみながら年老いて行きたかったのだけれど、残念ながらそれが叶うことはなかった。
それは夢を実現出来た事だけでさえも出来すぎな人生なのにそれ以上のものを望むとは余りにも欲が深いじゃないかと言うことで、神様が適当な時に女房を天に召喚したのかも知れないと思った。とは言え彼女はあの世へ旅立つまでの5年間、この夢の牧場で大いに人生の終章を楽しんだことはこの私が一番よく知っている。「私は世界一幸せ者」 嬉々としていつも私に語っていた彼女の笑顔が脳裏に焼きついて離れない。
幸い起きている時に見る夢は既に実現させた。では睡眠中に見る夢はどうだろうか。私はこの夢には多くを望まない。ただただ時々女房に逢える事が出来ればそれで十分である。でも亡くなった人の夢はなかなか見るのは難しいと言われる。しかし夢に出てこないからと言って悲しむ必要もないだろう。それは夢に出ることで私を更に悲しませるんじゃないかと彼女は心配して出てこないのかも知れない。また親兄弟や子供と同じ時期に必ず見るとも限らない。そしてそれは1年後だったり3年後だったりすることもある。もし何かあったら私にわかり易い形できっと現れると思っている。今は焦らずその時を待つしかないだろう。
その一方で「会いたいと思う人は中々夢の中に出てこないんだね」とある人に言ったら、こう言われた。それは、「相手が何も思い残すことがないからだ。成仏したと言うことだからいいことなんだよ。」と。それと、夢に出てきても、覚えてないってこともあり得るだろう。しかし私としては年に数回でも夢の中で彼女と逢えればなあと思っている。
しかし今のところ彼女は中々私の夢の中には現れて来てくれない。でも彼女が他界してから一度だけ出て来てくれた。その時の彼女はやけに背が高く見上げるようだったがやはり足元がぼやけていた。よく幽霊は足がないと言われるがこれは本当の話である。あの世の人はみんな足がないのかも知れない、いやそう言うことを幼い頃から聞いてきたからそんな先入観が植え付けられてしまったから彼女の足元もぼやけていたんだろう。私は大きな声で何度も彼女の名前を呼んだのだが彼女はただ微笑んでいるだけだった。そして彼女を抱擁しようと近ずいた時に目が覚めてしまったのである。
でもとても嬉しかった。たまに逢うことでしばらくは我慢が出来る、よく言われる遠距離恋愛と言うのはこんな感じなのかも知れない。次回彼女は何時夢の中に出て来てくれるのであろうか?予告もなしに現れると言うのが夢のルールとは言えとても楽しみではある。