医療費がバカ高い、貧乏人は病気になるな、無保険者は極端なこと死を待つしかない、保険料の高騰は半端じゃない等々、これらがアメリカの一般的な医療事情である。当たらずとも遠からず。今迄私は卑近な例を嫌ほど見てきている。だがしかし、そんなネガティブな部分だけを捉えていると、アメリカは恐ろしい国と思わざるを得ない。でもある程度の収入があり並以上の保険に加入していれば、世界最先端の治療や投薬を享受出来ることも確かである。
女房は2007年末に乳癌の宣告を受けたのだが、爾来彼女の主治医には一貫してお世話になってきた。運も良かったこともあるが、全米でも著名な乳癌の権威で彼は国内はもとより日本や東南アジア、ヨーロッパなどへ招聘され乳癌の最新治療に関する講義などにも携わって来た。アメリカでは「3時間待って3分治療」と言うような極端な診察はない。全てが予約制であることもあるが、医師と患者はじっくりと話す時間がある。医師は患者のあらゆる質問に答えまた不安を取り除くべく最大限の努力をする。彼女が診察を受ける度に私も診察室へ同行するから、そのうちに家族ぐるみの会話も始まったのである。
女房はすっかり主治医がお気に入りとなり基本的に彼の治療に関する示唆は殆ど受け入れて来た。それ程この主治医と女房の信頼関係は強固であった。かれは常にポジティブで決して女房を落胆させることなく、可能な限りのあらゆる最新の治療を施すことを約束した。専門医で細かく分かれているアメリカの病院システムでは主治医の顔が利くことが一番大事である。彼の人脈を使って外科医や放射線、ホルモン剤投与、抗癌剤治療、肝臓や肺の専門医。。。。どれもこれも腕のいい医師団を紹介してもらい彼ら全てが主治医に経過報告をして行ったから主治医は女房の病状は常に完全に把握していたのである。
この主治医は特別なのかもしれないが彼のパーソナルタッチは凄かった。彼女が入院した大学付属病院は全米でも著名である。特に乳癌治療に関してはトップクラスの医師団を擁していたのであるが主治医はそのリーダー格であった。この病院は結構なサイズで医師の数も1000人を超える程であったし、彼のオフィスから女房の病室まではかなりの距離があったが、殆ど毎日やってきて彼女を元気ずけた。治療を続けて行く過程で女房の不安を和らげるべく全ての質問に丁寧に答えてくれたから彼女は精神的には常に安定した状態であった。
私も主治医と非常に懇意となり彼に銭金の問題は二の次ゆえ可能な限りベストな治療をお願いします、と依頼した。実際彼女が最新のまだ認可されていない、従って保険ではカバーされないだろう治療方法や投薬で助かるのなら、今迄築き上げてきた資産の全てを投げ打ってでもという覚悟であった。その気持ちはもちろん女房にも伝えた。そして彼女は全米でもトップクラスの医師団とその治療を享受出来る恵まれた環境に感謝した。従って彼らをして助けてもらえなかったら仕方がない、と言う諦観の気持ちは既にズッと以前から抱いているようであった。
2008年の初めに乳房の全摘手術に成功し暫くは普通の生活に戻ることが出来た。しかし、2010年の初めに再発の兆候がみられ検査の結果、今度は骨や肝臓に癌細胞が移転しているのが発見された。でもその知らせを主治医から聞いた彼女は最初の癌宣告の時より遥かに落ち着いているように見えた。それは主治医との全幅の信頼関係が構築されていたからなのかも知れない。再発後も主治医の彼女に対するアプローチに変化はなく、より一層癌と闘う勇気と激励を毎回の診察で彼女に繰り返し唱えた。
肝臓の中に移転した細胞は最新鋭の手術で撲滅した模様である。かっては肝臓への移転は致命的と言われたがここ数年で放射線を極度に絞りレーザー光線のような感じで細胞をピンポイントで狙い焼き殺すと言う手法だった。その為に癌細胞の周囲に液体状の金を注入する事前手術も行われた。主治医も私も「いやあ肝臓までも金を入れちゃって、何処までも高くつく王女様だ。」と3人で冗談を言い合った。でも骨への転移は結局は彼女の命取りになった。詳しくはまた別の機会に述べるが、癌の進行レベルで骨への転移は自動的に末期症状と言うことであった。だが今日の医療技術では、末期即死を意味するものではなくなってきたことも聞いた。
話は一気に飛ぶが、個室に移ってから彼女の病状は回復基調にあったのでリハビリを始めた。ベッドに横たわり始めてからもう一ヶ月半にもなるので、床ずれが出始めまたベッドの上で座ることさえ出来なかったので、まずそれを克服し歩行訓練も少しずつ始めたのである。しかしその間でも彼女の胸部の癌は進行しつつあった。一生懸命食べることで体力を付け、より強力な抗癌剤を打つことでその進行を止めようという選択肢も残されていた。だからリハビリとそして食べることによっての体力回復に努めたのであるが、食欲不振は如何ともし難がった。私はしばしば何とか少しでも食べるようきつく諌めたが、彼女は「あなた、もういいの。これ以上私を私を責めないで。」 と言っている悲しそうな目つきは今も忘れない。
病院生活も2ヶ月が過ぎたが、彼女の病状は坂道を転がるがごとしで日に日に憔悴していった。もう食べることをしなくなったから当然と言えば当然である。私は主治医にストレートに言って下さいとお願いした。「女房の命のろうそくはあとどのくらい残っているのですか?」 と。彼は「残念ながら早くて2週間、よくもって1ヶ月です。私達としては可能な限り全ての手を尽くしました。」 そして彼が女房の主治医となって初めて「もう日本にいる息子さんとフロリダにいる妹さんを呼んだ方がいいでしょう。」とのことだった。私はもう躊躇することなく間髪を入れず彼らに連絡を取り、こちらへ急遽来るよう要請した。
その頃には女房もしきりに家に帰りたい、牧場の景色を見たいと言い出した。私は彼女が入院して以来、もし最悪な事態となっても彼女の人生の終焉は絶対に牧場で過ごさせてやりたいとの強い意志を持っていた。だからその旨を告げ、私達は主治医も含め全員が彼女の要望に答えるようにした。病院を去り家に帰ることが決まってから5日程あった。息子が日本から来て彼女に「さあママ、一生懸命食べて体力を回復させまた抗癌剤を打たなければね。」そう言って彼女を元気ずけると急に沢山食べ始めるようになった。そう言いながら息子がスプーンで彼女に食べさせる姿を見て私はいたたまれなくなって病室を出て行った。しかし今思えばそれは息子を喜ばせる為の彼女の精一杯の努力であった。
それから主治医は毎日彼女を訪ね30分くらいいや多いときは一時間くらい彼女のベッドの横に座って、よもやま話をした。その時にはもう病気のことは二人とも一切触れなかった。しばしば二人の笑い声が聞こえてきたが、ただでさへ忙しい著名な主治医が一患者の為にこんな時間をさいてくれることなど稀有に近いものがあった。日本ではまず考えられないし、アメリカでもこんな例はあまりないだろう。主治医は「 牧場に帰ったらまた食欲が出て体力が回復するかも知れない。そうしたらまたここへ来て新たな治療をしよう。君は数え切れないほどいる私の患者さんの中でベストな人、だからまた会えるのを待っているよ。」 そう言って最後まで彼女に希望をもたせた。
私は女房が最高峰の医師団と最新の治療を受けることが出来、これ以上の感謝はなくこれから何が起ころうとも癌克服の為に取ったあらゆる手段に対し女房も私も、決して後悔などしない自信があった。