以前述べたことがある。齢を重ねる毎に大和魂が高揚してくる日本男児の私にとって、この身は何処にあろうとも味噌汁やお茶漬けのない生活なんてまず考えられないし、もう考えたくもない。分厚いステーキが好きで今まで随分食べてきたが、もう余り食指も動かない。あっさりしたものがいい、あっさりしたものが!
歳を取った証拠だと言われようが馬耳東風、余計なお世話と言うものよ!わたしゃ、死ぬまで自分の好きなものを腹一杯(いや、お医者は腹八分目にしとけ、というが天邪鬼としては腹九分目で妥協していく。)食らってお陀仏したいと思っている。まして物欲ゼロ、性欲も限りなくゼロに近ずきつつある昨今、食欲以外に何の欲があるのかいな!!!歳とともに達者になったのも口だけであるから、自分は卑しい口をしているのかも知れない。
ということで、私はこのテキサスの片田舎にて小さな日本食のレストランオープンを考えた。いやそんな立派なものでなく、昔懐かしい国鉄の駅前や大学前、工事現場近くの大衆食堂のイメージである。メニューもある程度備えなくてはならないし、鍋や器も手抜きはしたくない。この近辺に日本料理用の食材などないし、ましてこの内陸で新鮮な魚など、まさに雨夜に星である。思うほど簡単ではなく、大した投資もしないとなると出来上がりはやはり怪しげな日本食堂になってしまうのだろう。
そして多分始めても採算が合わずに四苦八苦するだろうが、それも仕方あるまい。酒好きのオヤジが半ば趣味で始める居酒屋みたいなもので、気がついたら何時の間にか毎晩最初のうちだけはカウンターの中にいるものの、そのうち外に出てお客と一緒に座って差しつ差されつ盛り上がっている。稼いだ分だけ飲んだくれ、女房にいつも叱られているが本人は至って呑気、子供の頃そんな憎めない酒屋のオヤジが近所に居たことを覚えている。
高校生の頃。ある晩夜食のラーメンを作ろうとして台所でごそごそしていたら父親がそれを見つけ、男子厨房に入らず、とこっぴどく叱られた。そう言った家庭環境で育ったせいか料理とは一生無関係だと思ってきたが、さにあらず。30歳を過ぎたあたりからそんな贅沢?も言っておられない状況下に自分が置かれつつあることを認識し始めた。
ロッキーの山奥での4年間の生活は、日本食と完全に隔離されたものであった。人間、求めても得られないと解ると逆に諦めるしそれなしでも何とか生きられることを学んだ。しかしある時山を下りて都会のデンバーに行く機会があり、その時に日本レストランの看板が見えたのでもう何らの躊躇もなくドアを開けた。涙を流しながらと言ったら大袈裟だが感激して一人で食べきれない程注文して貪ぼり食った。それで一巻の終わりである。
堰を切った水は怒涛の如く流れはじめ、もう日本食がなくてはこれ以上生きられないとまで思った。(勿論三度三度でなく、適宜という意味で。)その後は味をしめて日本食の為に3ヶ月に一度位の割合で山を下りて行った生活が続いたが、カウボーイ生活から離れ都会で暮らすようになってからは真剣に料理を覚えようと思い始めたのである。
最初は簡単な日本料理の本に従って色々作って食べてみたが、どうも味がしっくりしない。何故かなあと思考を巡らすが適当な答えが見つからぬまま数年が過ぎたが、ある年の正月どうにも雑煮が食べたくなってオフクロに国際電話をかけ食材や味付けなどの教授をしてもらい早速作ってみた。祈るような気持ちで雑煮の一切れを口にしたときの感激はいまだに忘れない。何十年も前のオフクロの味、我が家の味が鮮明に蘇えって来たのである。私は、これだ!と思った。そこには今まで徒に料理の本に頼りすぎた為に自分の口に合う味とはかけ離れたものを創ろうとしてきたことの反省をする自分がいた。
それからと言うもの、気がふれたようにオフクロが得意とする料理を片っ端からマスターしていったのである。彼女は大正生まれの人間だから、いわゆる料理のレシピなどなく、食材と後はサシスセソの目分量だけを教えてくれた。従って一つの料理でも試行錯誤を繰り返しながら、この味だ!と思うところまで創り続けた。お陰様でレパートリーが一気に広がった。気がついたら焼きモノ、煮モノ、揚げモノ、炒めモノ、合えモノ、蒸しモノ夫々の分野で応用編も含め軽く50種類以上のメニューが作れるようになったのである。
アメリカ人の友達は勿論のこと日本からのお客さんにも必ず何点かはふるまうことにしているが、味は中々の好評である。そして一昨年オフクロが冥土へ行く前にもう一度だけアメリカに行きたいとの思いを実現させてあげた。こちらでの滞在中全ての料理を味見してもらう訳にはいかなかったが、私の創った数点の料理を旨い旨いと言って食べてくれたのでとても嬉しかった。親子でお世辞は抜きにして、ホントのことを言って欲しいと言ったら、「お前は私の息子だ。よく頑張ったね。」が答えだった。その意味は、私のDNAを引き継いでいるから料理も中々やるじゃん、ということだったのだろう。
水商売とは客の人気や贔屓によって収入が左右される商売で飲食業がその最たるものと言われる。例の食堂のアイデアを、こちらで日本レストランを経営している友達に相談したが、武家の商法になるから止めとけ、と言われた。自分の気まぐれでやれる程水商売は甘くない、それよりもノンビリ牛のケツでも追っていた方がやはり自分に合っているんかなあ。。。。と言うのが結論のようである。そして人口よりも牛の数が遥かに多いこんなテキサスの田舎町で誰が訳の分からないような日本食堂へ来るもんか、そう言われればムベなるかなである。
いつの間にか料理をすることが大好きになった。お陰様で食材さえあれば食べたいなと思う日本料理は大体作れるようになったから、もうかってのように薬が切れて禁断症状に陥ったような麻薬常習者的な自分はとっくに昔のものとなった。今はこの牧場内に自分だけの日本食堂があり、そこで気ままに飲んだり食ったりしている。ここには紛れも無く日本がある。私の故郷がある。オフクロの味がある。だからこの地で果てることに何の寂しさも不安もない。最後まで好きなものを食って逝けたら幸せである。