私も息子も彼女のことをサンシャインと呼んでいる。それはいつ如何なる時も太陽の光の如く明るいからである。それは私達ばかりではなく、彼女を知る全ての友人や知人が同じようなことを言う。部屋に沈んだ空気が漂っていても彼女が入ってきた途端、一気に明るくなる。あの明るく愛くるしい笑顔は彼女のトレードマーク、その場の雰囲気を一変させる程の効力を持っていたのである。私が敵わぬのは、彼女は入院中でもその笑顔を絶やさなかったことである。
其れはICUでも個室でもリハビリの共同部屋でも変わることはなかった。ICU で口に数本の管を入れられていても目は笑っていた。そして新たに隣に入ってくる患者を気遣い、彼は大丈夫か?彼女はもうすぐICUから出れるのか?と自分のことはさておき、他の患者達のことを心配した。また出来るだけ医師や看護婦や介護の人達の手を煩わさないようにとの配慮も試みた。私の女房はそんな女性だったのである。
個室病棟に移ってからは私も同室で寝起きしたのだが、システムとしては24時間の完全看護であった。医師も交替制で24時間勤務、看護士介護士は12時間勤務の二交替制であったが重労働であることにかわりわなく、特に相手が重病患者であることが彼らの仕事を一層困難なものにしたのである。そう言った状況を知っているから尚女房は出来るだけ彼らに依頼することを避け、もっぱら私にあれこれ頼んだのである。私も可能な限り彼女の要望に答え身体をさすったり、拭いてやったり、夜中に飲み物を運んだりして一生懸命看護した。しかしもう一ヶ月余もベッドに横たわっている彼女に起き上がったり、ましてベッドを昇り降りするエネルギーもなかったし、チョッと身体の位置を変えるだけでも激痛が走るようになった。
そうこうしているうちにやはり床ずれが現れた。故にそれからは2時間毎に身体の位置を動かす作業が行われたのだが、その度に痛みがあるので顔をしかめるめる彼女を見るに忍びなかった。床ずれ治しも大事ではあったが彼女がもっとも助けを必要としたのは痛み止めの投薬と下の世話であった。この二つに関して何故か彼女は極限まで我慢しいつもどうしようなくなってからナースボタンを押した。私も看護婦達もそんな遠慮も我慢もすることはないから速やかに助けを呼びなさいと言ったのだが、それ以後も彼女の態度は変わることはなかった。
緩和ケアとしてのモルヒネ投薬も、彼女は日中は痛くなったらその都度コールボタンを押したが、真夜中過ぎたら痛くなっても我慢した。看護婦達も疲れているだろうからこんなことで煩わしたくない、私が朝まで我慢すればと言い張った。その度に私が強引にナースボタンを押して助けを求めたのである。もっと悲惨なのは下の世話である。介護士がオマルを持ってくるまでの時間はマチマチである。彼女は我慢に我慢を重ねて決してベッドの中で粗相をするようなことはなかった。看護介護の連中はそんな遠慮など全く必要ない、出物腫れ物ところ嫌わずだからドンドン出せばいい、と彼らは大いに勧めたのだが彼女の態度は変わらなかった。私は彼女の強い自負心がそうさせたのを痛い程分っていた。
彼女は特にオマルを使用する時は私に必ず室外に出ることを求めた。そんな無様な姿を決して夫には見させないという頑ななまでの強い意志を彼女は息を引き取るまで貫き通したのである。そんな彼女の凛とした姿は人間としての最低限の威厳を保ちたいとの彼女の思いであった。そして変なところで頑固になり、そんな我慢をすることも他の人達に迷惑を掛けたくないという彼女独特の性格と言うか人生観に根ざしたものに他ならなかったのである。
一方で私は病院内でシフトによって患者ケアのクオリティやスピードに温度差があることを気ずいていた。殆どの看護介護士は一生懸命やってくれて感謝の念たえなかったが、一部夜勤や週末勤務の連中数人が患者への対応を怠ったり患者に辛く当たっている事実があったので、私の女房の件も含めマネージメントに直談判に行った。院内にいる大部分の患者の付き添いは夜や週末は帰ってしまうので、そんな彼らの素行を見ることが出来なかったので誰も文句を言いに行く人はいなかった。しかし私は違った、まして正しくないことを行っている連中をみると黙っておれない性分である。
私は色々な事実を記録した上でマネージャーの部屋を訪ね、一部始終を話した。彼女は神妙に聞いていたがやおら「あなたが報告してくれなければ、私達はそんなことが行われていることなど知る由も無かった」と逆に感謝されたのである。そして、「どうかそんなご無礼をお許し下さい。間髪を入れずに悪い面劣っている面を直しますから、これからはあなた方に不快な思いをさせることはありません。」それ以後矯正されるべき連中は即座に素行を直し、一気にまともな看護介護士に変化したのは言うまでもない。私は他の患者達にも感謝されこの病院のサービスはただでさへ好いのにそれがもっと改善されたことを内心喜んだ。
そんなことがあっても、女房の介護する人達に対する態度は変わらなかった。誰に対しても常に笑顔を絶やさず、「スミマセンね、お世話になります。色々ありがとうね。」という言葉を毎回かけた。そのうちにICUでもそうだったが、彼女は個室病棟でも最も陽気な人気者としてみなから好かれる存在となった。それは診察に来る医師や看護介護士が「あなたはここでのベストの患者、人気者ですよ。逆に私達があなたから元気をもらいます。」と言うようなことを再々言われたのである。
その後病状は一進一退を続けていたが彼女の要求や医師との相談の中でこれ以上ベッドに横たわっていても進展がないのでリハビリセンターへ移動し歩行練習を始めることを決断。十分な食事をし栄養を採り、ベッドに起き上がったり歩行訓練をしたりして体力を回復させよう、そしてしかる後より強い抗癌剤を打とう、というのがこの目論見であった。
しかし我々の思惑とは逆に彼女は日に日に衰弱していったのである。そんな中でも彼女は陽気さを失わず、そして相変わらず周囲の患者達を気ずかった。だからリハビリセンターでもたちまちのうちに人気者になったのである。でもその頃から彼女はしきりに家に帰りたいと言うようになってきた。もう彼女は牧場を2ヶ月余も留守にしているのである。毎日私に懇願するような目つきで頼む彼女を見て私は主治医とじっくり話をし、その結果彼も私が彼女を連れて家に帰ることを賛同してくれた。ただし家では病院のような治療が継続して出来ないので家庭内ホスピスにお願いすることにした。女房は若干の戸惑いはあったもののホスピスの世話になることの必要書類にサインをした。既にその時、彼女は自らの死を受け入れたに相違なかった。ホスピス=迫り来る死、と言う意味合いをよく理解した上での帰宅決定であった。
彼女が牧場へ帰ると言う日の朝、息子と私は一足先に病院を離れ受け入れ体制を準備する為に牧場に向かった。彼女と彼女の妹は救急車にのって移動するとのことだった。後で聞いたのだが、彼女が担架に乗せられる前、沢山の看護介護士や医師達が集まり、彼女を囲んで写真を撮ったり励ましの言葉を送った。そして彼女が去っていくまで皆で「ハッピートレイル」の歌を歌って見送ってくれた。その意味は
『 再び会えるその日まで楽しい旅を続けられんことを !
常に笑顔を失わず楽しい旅を続けられんことを !
たとえ嵐が来ようとも、再び会えるその日まで歌い続けて
楽しい旅を続けられんことを !
そしたらいつかは必ず陽光があなたにさして来るでしょう !
再び会えるその日まで楽しい旅を続けられんことを ! 』
入院してからあまり涙を見せたことのない彼女がこの時ばかりは慟哭の涙を流し、それを拭おうともせずに多くの人達にただただありがとうを繰り返し、抱き合い握手しそれはそれは感動的な別れのシーンであったと義妹が私に話してくれた。そしてこんな形で病院を見送られた患者はそこでは稀有であることも後から聞いたのである。私の女房はそんな女性であった。