私には両親から受け継いだ同じDNAを持ちながら性格から体格まで全く異なる二つ違いの兄がいた。過去形で話すのは、8年前に彼は小細胞癌と言う恐ろしく進行の早い癌に襲われ若干57歳の若さで彼岸に旅立ってしまったのである。人間の悲しみや苦しみは年とともに風化していくとは言え、今尚いまわの際に残した彼の辛そうな言葉が耳から離れない。「俺が行くまで頑張れ、待っていろよ!」「。。。。。。わかった。」消え入るような声だったが、今思えば彼は精一杯声を振り絞って私に答えたのだろう。
それから半日後こちらの時間の夜明け前、日本から国際電話がかかってきた。こんな時間の電話はろくなものではない、不吉な予感がした。つい先程、兄が二度と帰らぬ人となったことを告げられた。話を聞くと、私からの電話を待っていたかのようにそれが済むと、意識が無くなっていき苦しみながら死んで行ったらしい。「兄貴の馬鹿野郎!どうして俺が行くまで待てなかったんだ!!」私は悔しさで慟哭の涙が頬をつたい流れ落ちるのを拭おうともしなかった。人の命の儚さ、刹那さ、やるせなさを過程痛切に感じたことはかって無かった。
彼は弟や妹思いの優しい兄であった。小さな頃たった一度だけ兄弟喧嘩をしたような記憶があるが、健康優良児で身体の大きかった彼に勝てるわけはなかった。私は時々妹を苛めようとしたが彼によく止められたものである。幼少の頃の私はまるで金魚の糞の如く彼の後をついて行った。彼は上級生達と張り合って同じ遊びをしたものだが、そんな時でも嫌な顔ひとつせず私を何処へでも連れて行ってくれた。だから私の幼年期の思い出の全ては彼とともにあり、今でも時々あの懐かしい日々が走馬灯の如く鮮明に蘇えってくる。
彼はオヤジに似て謹厳実直、真面目さを絵で描いたような人間だった。製造会社に勤めていたがたまたま名古屋の支店長時代の話。義姉が言っていたのだが土曜日曜の週末でも一人で会社に暫く行ってくるという。多分特別な仕事があった訳でもないだろうが、そうすることで俺は四六時中会社のことを思っている考えているとの自己満足に陥っていたのであろう。そんな感じで長い会社人生の中でも息を抜くと言うことを知らなかったから、私は彼と酒を酌み交わしながらよくからかったものである。
「兄貴、会社と言うのは何故法人というのか解っているのかい?」
「 いざとなれば血も涙もない法律上の人格という意味さ。資本の論理という奴は貪欲で満足という言葉を知らない。そして比較主義の権化でもある。だから売り上げでも利益でもマーケットシェアでも労働の生産性でも何でもかんでも昨年よりは今年、今年よりは来年ということになる。今年は前年より色々な分野で大いにアップしたから来年はユックリ楽にやれとは絶対に言わない。逆にもっと出来るだろうからとキツいノルマが課せられるのがオチである。だからいつも全速力で走っていると必ずいつか息切れするぜ!!」
「お前らしい考え方だな。でも俺がいなきゃ支店が廻らないんだ。」
「みんなそう思わせるように訓練するんのが会社の凄い所さ。支店長や、いや社長がいなくても会社と言うのは何とか廻っていくよ、それが組織というもんさ。俺も小さいながらも会社経営しているから、社員をうまく使おう、働かせようというからくりは全部解っているんだよ。」
「。。。。。。」
「要は給料分だけは働けってこと。病気になったって会社というのは冷たいもんだぜ。自分の健康管理さえ出来ないんじゃ支店長失格だな、会社は身体を壊してまで働けなんて言ったことは無いぞ!と言われてオシマイさ。」
彼は私からの辛言をどう受け取ったかは知らないがあまり言い顔はしなかった。そうこうしているうちにある日、九州にある傍系会社が経営危機に陥っているから行って立ち直らせてくれ、との命を上層部から懇願されたと言ってきた。業績回復後には本社に戻って役員に、という含みがあったらしいが私は即座に「お前の役目は終ったな、だからもうホント楽にやれや!本社に帰れるなんて幻想はもう捨てろ!」そう言うのが精一杯だった。
新しい職場でも同じようなペースで汗水たらして働いたらしい。私は「今までさんざん会社に尽くしてきたんだからたまには休暇でも取ってアメリカへでも遊びに来いや。バチはあたらんぜよ!」と盛んに進めたが「後数年で退職だから、それからゆっくり行くよ。楽しみは後に取っておいた方がいからな。」との返答だった。「思い立ったら吉日なんだがなあ」と言うのが私の返事だった。
それから二年、出向会社の業績も回復した。待ちに待った本社からの辞令は小さな四国支店の営業部長付けだった。愕然とした彼はそれから一気に憔悴していったと義姉からの連絡を受けた。四国へ転勤してから数ヶ月で肩や背中の痛みを訴え出したのでレントゲンを撮ったら、より精密な検査が必要といわれた。彼は毎年人間ドックに入って色々なチェックをしてきていたのでその時は腑に落ちなかった。実家の近くの大きな病院での精密検査の結果、肺癌と告知された。彼や家族の驚愕ぶりは尋常ではなかった。医師は抗癌剤や放射線での治療を始めようと彼に言い希望を持たせた。だが別室に呼ばれた家族には過酷な知らせが待っていた。
多分つい最近出てきた癌だと思われるけど進行が物凄く早く質のよくない種類で既に脳とか骨、肝臓まで転移しているからあまり多くのことは出来ない。余命半年位だろうとの衝撃的な説明であった。私は、咄嗟に喫煙が直接原因かも知れないが、ここ数年の一連の降格人事で彼はボロボロになってしまったのだろう。信じてきた者や会社に裏切られることのショックは計り知れないものがありそれが癌の促進にも結びついたことは容易に推測出来た。
彼の息子を中心に家族会議を開き彼には余命は知らせないことにした。私はアメリカから電話をし、彼を元気ずけたがその時彼は弱々しい声で 「お前、煙草を止めろよな、俺のようになるな!」私は受話器を置いた途端持っていた煙草に関するものを一切投棄し、固く禁煙を誓った。あれから8年にもなるがあの時以来煙草に触れたことさえもない。彼には言わなかったが、「これからはお前の分まで生きなきゃな。これ以上オヤジやオフクロを悲しませる訳にはいかんじゃろうが。」
それから間髪をいれず二回程日本へ行き彼を見舞った。医師は最後のひと時を実家でとの計らいで私もそれに併せて訪日したのだが、「抗癌剤のお陰で腫瘍が小さくなったからこの分だと回復も早いなあ。治ったら今度こそお前との約束を果たすべくアメリカへ行くよ」本人は知らないが私には死期が近いことが解っていたので彼が不憫でならなかった。チクショー何でこんないい人間が若くして逝かなきゃならないんだ!?彼に心の動揺や涙を見せることは絶対にしてはならないことだった。そしてそれがこの世で見た敬愛すべき兄の最後の姿だった。
企業戦士の壮烈なる最期だった。あの時もう少し私の意見を聞き入れてくれていたら、と残念でならない。最近ではストレスとか悩みやフラストレーションが癌の原因や進行を早めるとの科学的根拠が証明されつつあるだけに悔恨の情を禁じ得ないのである。
可愛そうに母はこの世で一番辛いと言われる“ 逆をみた。”オヤジは丁度その頃ボケが始まったので自分の息子の死が解らなかったようで、そのうちただいまと言って帰ってくるさと明るく振舞った。息子が旅立ったことさえ知らぬオヤジが一層不憫に思えてならなかった。気丈夫な母ではあったが看病疲れもあり見る影も無くやつれてしまった。私は仕事があるので後ろ髪引かれる思いで故郷を後にしたが幸い近くに住む妹夫婦の献身的な介護で少しずつでも元気を取り戻し始めた。それ以後彼らが老母の傍にいてどれ程元気つけ彼女の世話をしてくれたか想像するに難くない。
既に七回忌も過ぎ去るもの日々に疎うしとなりつつあるが母は毎朝仏壇の前で亡き息子と夫に語りかけ、妹は毎日近くにあるお墓参りを欠かさないそうである。私はと言えば、時々は故郷の方を向き千の風となったオヤジと兄貴に語りかけている。「そちらは二人いるから寂しくないだろう。だからあまり速くオフクロを迎えに来るなよ!」と。