ある日、久し振りの封筒が日本より届いた。老母からだ。国際電話料金も安くなった今、大体一週間に一度はお互い話をしているのだが改まった何かいなと思って封を切って見た。中から出て来たのは彼女の添え書きと次のような記事のコピーが入っていた。
添え書きにはこう記されてあった。「 お前にこれを見せようかどうか長い間迷った。でもアメリカくんだりに居たらどうせ私の臨終にも間に合わないだろうから、遺言ではないけどお前の父や母も一生懸命生きたよということを伝えておきたかった。親子でも照れくさくて言いにくいことはある。まして私がお前の父親をどの様に思ってきたかなど中々言い出せないものだ。今尚昔のお父さんの大学の元気な仲間達が毎年一回それぞれの近況を報告する意味での文集を作っている。彼らから亡きご主人に代わって是非投稿をとせがまれたので、慣れない筆をとって一生懸命書いて送ったのがこれです。心して読みなさい。」
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謹厳実直だったけど我儘、優しかったけど頑固、夫唱婦随だったけど身勝手で照れ屋、そんな主人が逝ってから早いものでやがて一周忌を迎えます。喜びも悲しみも幾年月。人生の大半を分かち合ってきた戦友との永久の別れは、例え90歳の大往生だったとは申せ、辛く悲しく寂しいものがございました。でも嘆いているばかりが故人の意志では決してなく、「 あなたが先に逝って淋しかったけど、私は残り少ない余生を腹一杯生きましたよ 」 と何時の日かあの世で胸を張って主人に報告せねばならず、今は少しずつ心の空白を埋め、再び前向きに日々の生活を送るように努め始めました。
三ヶ月程前のことでしたでしょうか、たまたま子供や孫達と主人が残していった日記や備忘録そして新聞の切抜き等を整理したり読んだりして在りし日を偲ぶ機会がございました。多くの書類の中から古ぼけた藁半紙が出てきました。そこには宮沢賢治の< 雨ニモ負ケズ > の詩で懐かしい主人の自筆で模写されたものがありました。何回も何回も読んだ形跡がありかなり大事にしてきたのでしょう。子供達も 「 宮沢賢治の話など一言も聞いたことがないからお父さんらしいね、俺はこんな人生を生きようとしてきたんだなどとは照れくさくて言えもしなかんたんだなあ、でも見直したよ。」そんな言葉のやり取りを聞いていた私はただただニンマリとしていました。< 雨にも負けず、風にも負けず、雪にも夏の暑さにも負けず、丈夫な身体を持ち、欲はなく、決して怒らず、いつも静かに笑っている。。。。。。。みんなにでくのぼうと呼ばれ、褒められもせず、苦にもされず、そういうものに私はなりたい。> 主人の生き様と宮沢賢治の詩とが所々重なり合っていたことに、私も子供達も生前気が付かなかった主人の別な側面を発見をしたようでほのぼのとした気持ちにさせられました。
若い頃から言葉少ない、感情表現の下手な人でした。ありがとうという感謝、ご苦労さんという労いの言葉など中々言ってくれませんでした。でも今思えば何時も心の中ではそう思っていても「 フロ、メシ、ネル 」 の三言葉亭主ではそんなことは恥ずかしくて口にも出来なかったのだと思います。晩年は益々言葉少なくなってしまったのですが、逆に同じことを何十回となく毎日聞かされました。「 おばあさん、ここが一番ええなあ。」 そして 「 お前は何もしなくていいから四六時中俺の傍にいてくれ。」 この二つの言葉は今も脳裏に焼きついていて離れることはありません。それは照れ屋だったあの人のあの世に旅立つ前の精一杯の、私に対する感謝と労いの愛情表現だったのでしょう。
今日が残りの人生の最初の日と思わば、毎日楽しく暮らせるように思います。人生を四季で例えるなら、今は実りの秋の真っ最中。美しい紅葉が何時までも見れるよう健康に留意し日々楽しんでいこう、そして冷たい北風の吹く冬の季節はほんの一瞬でいいと願う今日この頃です。
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読んでいる途中から目頭が熱くなるのを覚えた。読み終わったとき止めどもない大坪の涙が頬をつたい流れ落ちて行った。老母は、今尚かくしゃくとして独り暮らしの86歳。彼らの夫婦生活は風雪65年。その長さと重さに改めて畏敬の念を感じた。そしてこの世で素晴らしい父と母を持ちえたことを心より誇りに思った次第である。今まで散々親不孝を重ねてきた私、やがて人生の炎が消えていく母にこれから何をしてやれば良いのだろうか?
お互い遠く離れて暮らす定めは変えようがない。毎週元気な声をきかせてやることがせめてもの親孝行と思いたい。彼女からの手紙を受け取って暫くしてから、たった一行だったけど便箋にしたため老母に返事を送った。
“ 一億の人に一億の母あれど、我が母に勝るものなし ”