世界中何処を見渡しても日本くらい不必要な程の金を残して死ぬ人が多い国はないと思う。理由は色々あるだろうが多分、日本人の国民性や文化的背景からくるものなのだろう。かって100歳になったキンさんギンさんに、何か悩みはありますかとの問いに、老後が心配です、と答えたと言う。これぞまさに日本人のメンタリティを如実に現しているようで面白い。気風のいい宵越しの金は持たぬ江戸っ子気質はマイノリティなんだなとつくずく思う。
日本では孫にお爺ちゃんお婆ちゃんがお小遣いをあげるというのは非常に一般的で、ヘタをするといつまでたっても親よりもお爺ちゃんお婆ちゃんの方がお金持っているなんてことがある。でもそんなことを延々とやっているなんて言ったら、一体日本のお年寄りはどんな金持ちなんだと勘違いされる。
「老後に必要な資金は○億円!」なんていう宣伝が、何故か日本の金融機関には非常に多くあるがあれはちょっとおかしな金額ではないだろうか?!あんなに貯め込んだら相当リッチな生活が出来るか、中には使い切れずに大金を残して死ぬかどちらかであろう。子孫に美田を残すかのが良いのか、自分達で稼いだ金は使い切って身軽になってあの世へ行くのが良いのか、人夫々だから一概にどうのこうのと言う筋合いのものではないかも知れないが。。。。。
でもどうもみんな老後が心配だと言っているので合点がいかない。日本人ほど長生きする国民はいないので、ある程度の貯えは必要だと思うんだけども。。。。貯金が足りなかったら、いざとなったら家を抵当に入れてリバース・モーゲージでお金を借りて暮らしたらいいと思うんだけどなあ?しかしこの考え方も中々受入れ難い。何故なら、日本人ほど借金に抵抗がある国民もいないからである。
65歳以上のお年寄りの割合が2030年には、ほぼ30%近くになると予想されているが、高齢化社会の到来を負の面からだけ見ると日本はやがて活気のない老人大国となり、嗚呼世も末だと悲観的になる。しかし私はこの捉え方に大いなる異議を申し立てたい。今のお年寄りは結構お金持ちだし、健康管理も行き届いているから長生きもし、とても元気である。侮り難しはこの老人パワーであろう。信長の時代は人生50年だった。今は?80歳は当たり前、そして健康老人はみんな90歳、100歳までを見据えて生きている。誠、素晴らしいこと、大いに喜ぶべきである。
社会通念として還暦まではみんな一生懸命働き家族を養い社会に貢献する、その後の30年、40年はそのご褒美として人生を思うままに謳歌して、しかる後静かに黄泉の国へ旅立つ。例えば仕事が趣味の人は死ぬまで働いてもらえばいい。要はそういった健康老年労働者の受け皿を作ればいいのであろう。何もしたくない人はそれ以後は酔生夢死の人生を送ればいい。還暦になった時点でみんなが人生のリセットをし、それから先はそれこそ自分の好きなような人生を歩めば良い。
ではどうしたらそういった、お年寄りが憂いなく余生を満喫出来る社会を構築出来るのか?!いまだ何処の国でもこれだという正解も処方箋もないが、福祉先進国の色々な長所を止揚していくことによって何時か高齢化社会万々歳という理想的な社会システムの構築が可能なような気がする。と同時に若者達が引退年齢になった時もう年金はもらえないんじゃないかという不安を払拭させる方策を講ずるのは政治の責任である。理想的なシステムへの移行期には全国民が等しく痛みを感じるということであれば若者達も納得するのではないか?!
ヨーロッパの場合を見ると、現役時代の税金が非常に高いが、それ故に引退すれば年金だけでも十分に暮らせるほどもらえる。北欧などは福祉大国と言われるが、日本やアメリカとは税制が根本的に違うと思う。先憂後楽的な社会なのだろう。また英国などでは完全ではないが揺りかごから墓場まで安心して人生を送れるような社会システムが出来上がっているようだ。老後の年金はまあそれなりにもらえるとしても、基本的には一生質素な生活をするような社会的経済的構造がヨーロッパでは長い歴史の中で確立されてきた。
そしてお金の使い方という点ではヨーロッパの人のほうが日本人やアメリカ人より上手なので、実質的な生活は我々より豊かな人が多いと思う。古いものを何時までも大切に使おうとする考え方は大量消費社会に毒された日本人やアメリカ人のそれと根本的に違うような気がするし、またとりわけ日本人が変な服だのバッグだのに大金使っているのは、ヨーロッパの人達からしたら到底理解できないことなんだろう。アメリカはクレジットカード使用で先楽後憂社会、日本はヨーロッパとアメリカの中間、中楽中憂社会と言えるだろう。
一般的にアメリカでは結婚した子供が親の面倒を見るという文化はない。勿論私はマジョリティの話をしている。子供が巣立っていけば夫婦二人暮らしに戻る。例えはツバメの親子に似ている。雛が飛び立つことが出来るまで親は一生懸命エサを与え育てるが、子供が巣立ったらもう二度と会うことはない。この順送りの儀式は自然の摂理の中で整然と執り行われる。どちらも恩や見返りを表す感情はない。人間だけが唯一の感情動物であるから家族は死ぬまで一体感をもって行動する。それはまた素晴らしいことだが、成人した親子の理想は“スープの冷めない距離”に住むこと、という英語の諺をどう考えるかだ。そして最も大事なポイントは、経済的に老夫婦、若夫婦ともに相互依存の概念を逸脱する所にあろう。
何を言いたいかというと、お互いに頼りすぎることなく独立して生活しなさいということである。だからアメリカの夫婦は離婚したり死別したりすれば、年老いてからも一人で暮らすことになる。勿論寂しさはある。しかしこちらのお年寄りはみんな強い。いや歴史的文化的にそうすることが当たり前の社会になっているからみんなそう言ったライフスタイルを素直に受け入れて行くのである。
二世帯住宅もないとは言えないが、少ない。まして一つ屋根の下で親子二世代の夫婦が一緒に住むことはない。三世代同居なんて言うのはもう想像の域を超えている。だから典型的な嫁姑の葛藤なんてないし、ないから映画やテレビドラマの題材にもならない。日本ではそういったテーマのドラマや映画が如何に多いことか?!夫、嫁、姑、小姑の夫々の思惑の違いや複雑に入り組んだ家族の構図は傍で見ていると確かに対岸の火事としては面白い。でも事が己の家族のことになると深刻である。そういう点、こちらはシンプルであっさりしているし、私も女房サイドの親族とは変なシガラミや義理に影響されることもないから気楽である。義理の両親は他界したが一緒に住み面倒を見ることまなかったし、そんな話題のかけらも上がったことはない。
一人息子が家庭を持ち、ゆくゆくは一緒に住もうなんという気持ちは二人ともさらさらない。孫に会うたびに小遣いをやるでもなし、子供に面倒を見てもらおうなどとは思ってもいないから、変に嫁さんに気を使う必要もない、相続にしたって子供に分け与えることがよくないと思えば教会なんかに寄付してしまう。
だからと言って家族の絆が弱いと言うことは決してなく、日本的に言えば盆正月に会うくらいでも、絆の強さ深さはどんな家庭にも負けるものではない、私は長いアメリカ生活の中でその思いをひしひしと感じる。アメリカの高齢者は家族と一緒に住まず世話をしてもらえず寂しいように思われるだろうが、それと引き換えに精神的自由を享受しているのである。長い目で見ればこの“スープの冷めない距離”がお互いの為に幸せと思う。
それぞれの国で歴史的文化的背景が異なるから一概にどの家族形態が良いか悪いかは言えないが、高齢者に優しい社会、高齢者が楽しめる社会の建設は可能である。だから、“高齢化社会もいいじゃない?! ”なのである。勿論それが成就には多大なるコストと時間がかかることも承知している。年金の基金はどうするか、高騰する医療費はどうするか、解決しなければならない問題は多くあるが、叡智を絞ってよりよき社会を構築してそれを後世に継承していくのが今の世に生きる我々の使命と思う。
多分私の考え方は甘いかも知れない。でも陽転思考の私としては、物事を良い方良い方へと考えたい。この世に生を受けしものが、分け隔てなく幸せな人生を全うする権利は何人たりとも侵すことは出来ないし、未来はそういったことが当たり前の社会になってくれることを切に願うものである。