来る日も来る日も私達は筆談を続けた。しかし残念ながら彼女が好転する兆しはない。検査をして行くうちに肋骨と肺の間に水が溜まり始めていると言う。癌の進行速度が一気に速まってきたのかも知れないと私は嫌な予感がした。でも、彼女が少しでも楽になるのならもう何でもして下さいと医師に懇願した。
水を抜くと少し楽になったのか彼女は冗談を言い始めた。そして医師や看護師の前で私を困惑させた。そんなことはもう彼女と一緒になって35年、嫌と言うほど味わってきているが今ではそのキツ~イ冗談が小気味よく聞こえる様になった。彼女は気分がよくご機嫌な証拠である。私達は他人には分らない夫婦間での独特な手話があった。手や指の動きによって簡単だがしかし強烈な意思伝達方法が10くらいあったので、それらをお互い投げ合うことで喋らなくとも心はしっかりと通じ合っていたのである。
しかし3週間経ってもICUから出ることも出来ず、人工呼吸器も外すことは出来なかった。医師の顔色を伺うが笑みはなかった。人工呼吸器の使用も長引くと外すのが難しくなりある時期を過ぎると選択肢はなく一生そのお世話にならねばならないだろう、そして彼女はもうその時期を通過しつつある、との説明があった。と言う事は、もう口で喋れない、口で飲めない、口から食べれないということか?!意識はあるからまだましとは言え、クオリティオブライフの観点からすると、彼女はもう二度と普通の生活は出来ないということであった。
彼女は明るく振舞ってはいるが病状の予断は許さなかった。私は今まで決して思いたくもなかったが、一つの辛い事実を認識せざるを得なかった。それは今迄は「彼女はいつか死ぬ」と言う心配から「彼女はいつ死ぬか?」と言う恐怖に変わって来たのである。「私は大丈夫だから、誰にも心配かけるな、私を見舞うに及ばない」と彼女は主張して来た。しかし私はこの期に及んで彼女には相談することなく、日本に住む一人息子とフロリダに住む唯一の肉親である彼女の妹に急遽馳せ参じるよう依頼した。
息子には仕事があり妹には家庭があったから一週間でいいと私は言った。その上、妹は女房の最も懇意にしている友達も一緒に来るということでそれも有り難がった。彼らが着く前の日にまた病状が悪化し痛みを訴え出した。私は頼むから彼らが来るまで何とか持ち応えて欲しいと彼女を激励するとともに祈り続けた。その頃にはもう彼女は息子と妹に会いたい一心で必死に頑張っている様子が傍で見ていても痛い程理解出来た。
同じ日の午前と午後彼らはやって来た。勿論女房の喜びは尋常のものではなく、息子以外は涙なしでは再会出来なかった。私はICUに入る前の息子に、「ママの前では辛くとも絶対涙を見せるな!ママはお前より遥かに辛く苦痛な目に会っている。お前が泣いたらなんになる。懸命に励まし安心させよ!」そう言ってやったこともあり彼はこらえて努めて明るく振舞ってくれた。ICUを二人で出た途端、息子は私の胸の中で思い切り泣いた。私は「よく我慢してくれてありがとう。男泣きと言うのは、こう言うものなんだ。お前も少しは逞しくなってきたな。」と褒めてやった。
MRIの結果が出てやはり癌は大分進行していた。主治医は今迄よりも強い抗癌剤を打つことによって水が沸いてくるのを止められるかも知れない、しかしそれは人工呼吸器が外れて食事を取り始め彼女の体力の回復を待たねばその治療は始められないと言うことだった。にっちもさっちも行かないとはこのことで彼女の選択肢はドンドン狭くなっていった。彼女の妹達を近くのホテルに泊め、私と息子は例の家族控え室に寝泊りしたが、女房にとってはこの世で最愛の夫と息子が傍にいてくれるということでとても心強いと何度も感謝の念を伝えてくれた。
息子の日本へ帰る日が近ずいてきた。息子はズッと母親の傍にいて看病すると言い出した。「仕事の代わりはいつでも見つかる。しかしこの世でママはただ一人、掛け替えのない存在である。僕を産んでくれた母に最後まで一緒にいてやるのが子として取るべき道ではないのか?!」と。しかし彼女は「私は大丈夫。苦労してやっといい仕事が見つかりそれも丁度始めたところ。これからのお前にとって今が一番な時だから日本へ帰りなさい。」そう言って息子の背中を押した彼女。お互い複雑な感情が交錯して日が過ぎたが、息子が日本へ帰る日の前日、奇跡は起きた。
医師が彼女を元気ずけた。「明日は息子さんが日本へ帰るということを聞いている。あなたは人工呼吸器をつけてやがて1ヶ月になる。心理的にはもう機器に頼りすぎて怖くて外せないと言う気持ちはよく分る。しかし最後の試みをしてみましょう。そして少しでも息子さんを安心させて日本へ帰っていただこうではありませんか?!」 前夜そのように医師に言われた翌朝、彼女は最後の力を振り絞って人工呼吸器を外す作業を成し終えた。暫く様子を見ていた医師が「自分で呼吸し始めた。奇跡的だ!やはり息子さんの存在は大きかった。」
その日の午後、彼女はほぼ一ヶ月ぶりに口のチューブが取れ少しばかりだが飲み食いが出来るようになった。それ以上に彼女が喜んだのは、かすれて蚊が鳴くような声ではあったが久し振りに話せるようになったことである。いままで息子も筆談で話をしてきたからもどかしいところがあったから、これで二人とも堰を切ったように喋り始めたのである。私はただただ女房の頑張りと息子の献身的な看病に感謝した。例え半日でもいい、母子が思いのたけを話し合うことが出来たことで息子は何とか気分を取り直し明日は機上の人となってくれるだろう。
彼女と息子は約束し合った。これから一生懸命食べて体力を回復させ抗癌剤を打つことで再び癌と闘う、と言うことを。息子は後ろ髪を引かれる思いながらも、愛する母にしばしの別れを告げ日本へ帰って行った。空港での見送りの際、彼は私にこう言った。「辛い一週間だった。でも来て良かった。ママのいない人生なんて考えられない。だから日本にいて一生懸命祈るし、また僕のママは強い人だから病魔に打ち克って必ずよくなることを信じて疑わない。オヤジ、おふくろをよろしく頼む。」 そう言って頼もしくはあったが寂しそうな後ろ姿を見せゲートの向こうに消えて行った。
これでやっとICUから脱出できる。彼女が小康状態を保ち始めたことと相まって、私は久し振りにこ踊りして喜んだのである。主治医の計らいで眺めのいい個室に入れてもらえることになった。そこには付き添い人用の簡易ベッドも置かれていたから、もう椅子やソファで夜を明かす必要もなくなった。ICUでは毎時間とはいえ面会には制限があったが個室では英語流に言うと24/7もOK。24時間1週間まるまる付きっ切りが可能と言うことだった。
後で思うと私達にとっては長い夫婦生活でこの部屋が最高の場所とも思えるようになった。私達はここで腹一杯の話が出来る機会に恵まれたのである。