古くは葬式、今風には「告別式」とか「お別れの会」とか「故人を偲ぶ会」とか色々言われる。しかし私と女房の場合は、このどれもが当を得ていない。と言うのは、私は女房と別れるなどと言うことは露ほども考えたことはないし、これからもズッと一緒だと固く信じているからである。だから正確に言えば英語では「SEE YOU LATER !」 日本語的には「じゃあ、またあとでね!」 とこんな感じである。従って儀式は慣習にのっとってと言うものでなく、出来るだけ女房の意に沿い、また彼女が喜びそうな形を取ることにした。これは誰にも相談することなく私と息子二人で決めたのである。
彼女の臨終は安らかでとても爽やかだった。亡くなる日の前夜まで冗談を言い笑顔を絶やさず、私達を心配させぬよう健気に振舞って逝った。あの世に旅立つ人間の最後はかくありたいと思うお手本のような大往生であったが、私には到底真似が出来そうもない逝き方であった。
通夜は行わないことにした。彼女は生前「私の死に顔は決して人に見せないで欲しい」との遺志もあった。世間一般には、あの人の死に顔は安らかだった、美しかった、等とよく言われるが私はそうは思わないし、女房もそのことを知っていたからそう要望したのだと思う。
教会の遺体安置所におかれた彼女の顔は整った美しさは保っていたが、血の気がなく冷たいしかも死化粧をしたそれは、生前の温か味のある愛くるしい微笑を浮かべたあの美しい顔とは比較にならないものだった。だから私は彼女の死に顔を目に焼き付けることなどせず、一瞬垣間見ただけですぐさま棺の扉を閉めたのである。私の中では、愛くるしく美しい彼女のイメージしか残っていない。そうする為に私は彼女の臨終の時から埋葬まで意図的に彼女の死に顔から目を逸らせて来たのである。結果的にそれは正しかったし、彼女のあのチャーミングな笑顔は未来永劫私の目に焼きついているし心の中に宿っているのである。
私は葬儀の前夜、息子と二人だけで教会へ行き彼女の前でひざまずき色々な話をした。望むべき最高の妻と偉大だった母を持ちえたことの誇りと喜び、そして惜し気もなく注いでくれた溢れる程の愛と素晴らしい家庭生活を営んでくれたことに、息子と共にただただ感謝の念一杯だった。
息子には「ママはこれからも僕達の心の中に住み続ける。しかし物理的にはもうあの世に逝ってしまいここにはいないし、帰ってこない。だから、そのことに対して二人して腹一杯泣こう。明日は葬儀だ。人様の前で涙を見せない為に、二人で一足先にママの旅立ちを見送ってやろう。勿論別れなんかじゃない、だから『ママ、じゃまたあとでね。天に召されて逝くんだから、これからは僕達がよく見えるね、いつも見守っていてね。こちらのことは心配いらないよ、ママに恥ずかしくないようにしっかり生きていくからね。』ママの夫として息子としての誇りを持ち続けることがこれからの彼女への供養になるんだから。」そう言って彼を鼓舞してやった。
葬儀の日は朝から曇り空だった。しかし式の始まる11時頃には雲一つない秋晴れとなり、息子と二人で「ママはサンシャインだ。」といつもそう呼んできた彼女の見送りに相応しい日となった。
彼女の棺は多くの花に囲まれ祭壇の中央に置かれた。献花は多くの友人知人親族からのものであり、その中にはニューヨークやサンフランシスコ、コロラドやフロリダ、遠くはフランスやドイツや中国から、そして勿論多くの日本からのもので埋め尽くされた。その美しい花々を見て、生前女房が如何に多くの人達に愛されたかが如実に理解出来るような気がした。
葬儀が始まった。最初に賛美歌、そして牧師の挨拶が終わった後、異例かもしれなかったが喪主としての私は壇上に立ち参列者全員にこのようなお願いをすることから始めた。
「お忙しい中、女房旅立ちの見送りにお出でいただきありがとうございました。彼女のトレードマークは溢れる程の笑顔、周りの人達に楽しさや喜びを与えるのが彼女の一生であったような気がします。明るく陽気な彼女であったが故に皆様の拍手と笑顔で彼女を彼岸へ送り出してやって欲しい。悲しくなんかありません、彼女は素晴らしい人生を過ごし天寿を全うして旅立って行くわけですから。」
私は女房との馴れ初めとか、共にすごして来た素敵な人生や、ユニークな夫婦生活、幸せな家庭生活 のことなど適当にジョークを交え30分くらい話しただろうか?!それは私にとって一世一代の彼女への賛辞と感謝の言葉であった。参列者達はそれを弔辞と理解したのかも知れないが、私はこの世で彼女に巡り合った幸せを声高らかに唱えよう、それが夫としての自分が彼女にしてやれる最高のはなむけの言葉だと思った。
私が話すユニークなエピソードやジョークの為に、教会内に笑い声が聞こえ、シメタこれぞ女房が望んだ儀式だと思った。しかし話の終わり頃にはあちらこちらで嗚咽が聞こえ、また多くの人達がハンカチで顔を拭う姿が目に映った。「何故だ?」笑顔で送り出してやって欲しいと懇願したのに。後で聞くと、涙一つ見せず悲しみを乗り越えて健気に振舞う私の姿を見て、いたたまれなくなって多くの人達が頬をぬらしたのだと言う。そうか、そうだったのか。嬉しかったけれども、私の中では若干の違和感があったのは否めない。
これまた珍しいのだが葬儀の最後には雇ったバグパイプ( スコットランドの有名な吹奏楽器)の演奏者に例の有名な「アメージンググレース」 を弾いてもらった。それは彼女も私も気に入っていた曲であり、お互いどちらが先に逝ってもその楽器のその曲で送って欲しい、そう言った約束があったのである。時に物悲しく、時に勇壮に聞こえるこの曲を聴きながら棺を埋葬地まで運んだ。
ここテキサスではいまだに90%近くが土葬である。土地が広いこともあり、人は死んだら大地に帰るとの信仰もあるから当然のことではある。彼女が息を引き取ってから、私は墓地を二つ購入した。一つは彼女が永遠に眠る場所、そしてその横に私もやがて眠りつく場所ということである。息子が「 僕の場所はないんか?」と聞いたから「お前は家に囚われる必要はないから自分の好きなところを青山としいつか寄り添うであろう連れ合いと一緒に眠れば良い。夫婦と言うのは未来永劫も一緒でいるもんなんだよ。だから、ここにお前の父と母は眠るんだ。」 そう言ったら、「そうか、夫婦の絆と言うのはそんなに強いもんか!?」 と納得したようである。
棺を埋葬するまで家族や参列者がその場所に残ることはない。牧師が儀式終焉の祈りを捧げたのを機に、私はもう一度バグパイパーにお願いして同じ曲を演奏してもらった。女房が「楽しい人生だったわ、色々ありがとう。じゃ、先に逝くね!」 と言ったような気がした。その音色は秋空高く響き渉り、私が彼女の棺に接吻し「じゃ、また後な!」と言ったと同時に、女房が天高く舞い上がっていくのを見たような幻覚に襲われた。