辞書を引くと「結婚とは人の生涯で最も慎重に選択されなくてはならない人生の分岐点。この選択は新たな命を生み出だす元でありスタートであり基本になるもの、つまり墓場でもなければ、できたから仕方なく結婚と言う安易なものではなく我々の想像以上に神聖なもの」とある。
しかし例の如く極楽トンボ的な私は、かって無性に結婚したいと思った時期があった。慎重に選択し決断したのかと問われるとあまり自信がなかった。という事は結構いい加減であったから、出来ちゃったり、勢い付いてモノの弾みでしてしまう可能性が大であったのである。
でも幸いなるかないずれのケースも未遂に終った。いずれのと言うのは、そんな機会が大学を卒業してから5年の間に三度ほどあったのである。別に見合いをした訳ではなかったがたまたまの巡り合わせであった。しかしその度に受けた心の傷跡はかなりの深手であった。でもそれは相手の心を傷つけたことによる仕打ちや償いであったから甘んじて受けざるを得なかったのである。
神戸には芦屋という高級住宅街がある。彼女の実家はそこから中国地方一帯に運送網を持つ中堅の運送会社を経営していてトラックも100台くらい所有し結構手広くやっていた。事業も順調に成長し、両親と弟一人の幸せな家庭であった。彼女の父親は私の大学のラグビー部の大先輩で公私に亘りお世話になったのだが、どうも先輩のお気に入りになったらしくそのうちに私独りで遊びにいくようになった。家族の一員のような対応をされるのにそんなに時間はかからなかった。
一人息子の出来は良くなかった。見るからに昼行灯のような面をしていたし会話さえもろくに出来なかったから、将来のこと特に家業の後継のことを思うと頭痛の種であると夫婦ともに率直に私に話した。娘は器量良しとは言えなかったが明るくて気持ちのいい子だった。そのうち、酒など飲んで酔っ払うとそこに泊まる様にもなった。何かしら段々嵌まって行くような気がしたが深慮遠謀とは程遠い青二才だったから私もいい気になっていた。彼女とも外で数回デートじみたことをしたが所詮は家族ぐるみの付き合いの延長、気楽なもので一気に打ち解けていった。いつも終点は大阪湾の夜景が見える六甲山、将来も一緒に見られるといいね、と話していた。
就職も大阪に決まったある日、彼らがあなたの部屋を用意するから芦屋から通ったら、と懇願してきた。その頃の私は結構軽かったから、それもいいなと二つ返事で承諾した。それからというもの、先輩は折をみて少しずつ事業の話をするようになり、将来的には手助けしてくれないかとまで言うようになった。その時明確に私は婿入りの要請をされているのだという彼らの意図を感じた。今風にいえば「逆玉」というのかも知れないが、悪い気はしなかった。
例の就活の時相談に乗ってもらった先輩を訪ね、ことのいきさつを話した。彼曰く「お前なあ、こんなチャンスは願ってもないぞ。建設現場へ行ったってどうせ遊び呆けて何も残らないのがオチさ。それに比べたらお前の前途は洋々たるもの、大きく舵をきるんや、人生の方向転換や」私はもうすっかりその気になって、いずれはアメリカへという気持ちも大きくブレ始めたのである。しかし今思うと、ここぞと言う時には何故かしらそういった話がことごとく壊れていったから、私がアメリカへ行くということは既に運命的なものがあったのだろう。
結婚ということになると、やはり親の承諾をとっておきたかった。両親に話をしたのだが、大学を出るか出ないかでまだ若いし早過ぎる、もう少し時間をかけた方がいいのではないかと、色よい返事をもらうことは出来なかった。仕方なくその旨を先方に話し、暫くは会社の寮に入るが芦屋へは頻繁に通いますと言うことでこの話取り敢えずは治まるかに思えた。
ところが数週間後に思いもよらぬドンデン返しが待っていたのである。もうすぐ入社というある日、彼女の父親に呼び出された。そして烈火の如き叱責を受けたのである。「君は自分の両親さえも説得出来ないのか?!失望した。」私は最初何が何だか分らなかった。
聞けば、どこでどう探したのか私のオヤジが突然芦屋の先輩宅を訪ね、「息子を堕落させるのは止めて欲しい。人生こんな甘いものと思い始めたら彼は将来絶対につまずくから、まず若いうちに苦労をさせたい。だからこの話はなかったことにしましょう!」
オヤジの野郎、ようやってくれるわ!と思ったが後の祭りだった。私は先輩夫婦に平謝りに謝った。娘は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていたが、それで却って救われたような気がした。うぶな18歳、お手つきをしなくて良かったと胸を撫で下ろした次第である。と同時に玉の輿に乗り損ねた無念さが込み上げてきたものの、「人生甘く見るな!」との大いなる警鐘を与えてくれたオヤジへの感謝の気持ちが膨らんでいった。
生まれてこの方温厚なオヤジしか知らなかった自分が初めて見た父親の知らぜらる側面であった。苦い体験ではあったがこの時、親と言うものは子供の将来にとって為にならないことは直感的にかぎわけ、我が子を守るためにはどんな手段を使うことも厭わない存在であることを知った。「親の意見と茄子の花は千に一つも無駄がない。」人の子の親となり齢を重ねるに従って、この言葉の意味が痛いほど判るようになってきた。