“給料はなくてもいい、とにかく働かせて欲しい”コロラドの牧場を中心に40通を越える手紙を書いた。だが熱意はあっても英語も満足に話せない日本人に牧場主達の反応は冷たい。途方に暮れた頃、ある親日家の観光牧場主に拾われた。憧れのカウボーイへの第一歩、喜び勇んで牧場に向かったが生まれてこのかた馬に乗ったことは一度もない。従って牧場生活最初の一年は、観光客の宿泊施設の掃除、薪拾い、皿洗い、ベビーシッターなどありとあらゆる仕事をさせられたが、その合間に馬に乗る練習をした。もちろん最初は馬の糞拾いからだった。
言葉が上手く通じない毎日で仕事も大変だったが楽しかった。ロッキー山脈の山奥ということもあって、殆どのアメリカ人は素朴で優しかった。彼らこそが私のそれからのドラマティックなアメリカ生活の礎を築いてくれたのであり、その恩は終生忘れることはない。誠意を尽くせば相手は必ず判ってくれる。例え人種は異なれど言葉は上手く通じねど、この思いには古今東西、普遍性があることをその時私は学んだのである。
ある時、カウボーイとして認められるには他人と同じことをやっていても駄目だ、何か違うことをやらなければと思い立った。足軽が侍大将を目指すように何か功を上げない事には一生馬の糞拾い、これまたいつの世も同じことであろう。それからは、蹄鉄打ちの学校へ行き蹄鉄師となりまたロデオスクールにも行って暴れ馬に乗り、地方のロデオにも出るようになった。そうこうしているうちに何時の間にかアメリカ人仲間からいっぱしのカウボーイとして一目を置かれるようになったのである。もう30数年も前のこと、当時としては珍しいジャパニーズカウボーイの出現である。