アリゾナからロスに移り暫くしたら、女房の妊娠が告げられた。飛び上がる程嬉しかったが、その感激たるやつかの間であった。と言うのは健康保険にも入れなかったくらいの赤貧状態であったから、出産費用などあるはずはない。さてどうしよう。。。。。
悶々とした状態で数ヶ月が過ぎたが、何処からともなく日本の両親がそれを聞き、日本で産んだらと言ってきた。それまで絶縁状態であったのでまさかと思ったが、やはり親子の絆というのはそんな簡単には断ち切ることが出来ないものだと改めて親の有難さを思い知らされた。私達はそれまでの非礼を詫び、女房を家族の一員として快く迎えてくれる彼らに心底感謝したのである。
私は5年前新天地を求めて祖国に別れを告げた人間である。そうおいそれとは帰らないというツッパリも父母の温かい言葉でもろくも崩れた。その時は己の意志の弱さを責めるより、絶縁してもう二度とまみえぬだろうと思った父母に再び会えることの嬉しさが凌駕した。
女房は初めての日本だった。言葉も習慣も食べ物も、いや全てが未知の世界だったのだが、そこでの出産を決意しついて来てくれた勇気に感謝した。私は日本ではまだ国際結婚が珍しかった時代に、しかも超保守的な田舎へ女房を連れて行き、こともあろうに出産までさせようとの暴挙?に出たのである。
小さな田舎町それも半島の先端近くにあったから昔はよく文化果つる地とも言われたくらいだから、噂は一気に広がった。かっての進駐軍が去って以来、所謂ガイジンが住んだことのない土地柄だった故、物珍しさも手伝って私達はあまたのひと達の好奇の眼にさらされた。覚悟はしてきたものの、日本のまして超保守的な田舎の人達から浴びせられる無言の視線は尋常なモノでない気がした。
幸い前年にオヤジは中学校の校長を最後に退職していたので、その点は救われたが、彼が現役であったならば教育者の息子がガイジンの嫁を連れてくるなんて何を考えているんだとケンケンゴウゴウ恐らく実現はしなかったであろう。それでも私の父と母は偉かった。世間から如何に誹謗や中傷を受けようと、我が子可愛さからの一念が全ての矢面に立つ気概をもたらしたのであろう。後年、その時の謝意を述べると、あの時は辛かったと言う言葉を二人がぽつりと言うのを聞いた時私はいたたまれない気持ちになったものである。
出産までに5ヶ月程あったから私達は近所の子供達を集めて英会話のイロハを教え始めた。そうすることによって子供達が女房になつき好印象を抱いてくれれば彼らの両親を通じ町中にいい評判が広がるのでないかとの期待感もあった。結果はその通りで暫くすると皆が気楽に私達に話しかけてくれるようになり、女房の人懐っこさも手伝っていつのまにやらいい意味での町の有名人になってしまった。
でも長い人生、辛い時には泣きっ面に蜂の例えもある。私はある日突然右耳からの出血を覚えた。驚いて病院に行って精密検査をしたら子供の頃に患った中耳炎を完治しなかったから長い間に内耳の出来物が大きくなりもう脳の壁を圧迫し始めているから急ぎ手術が必要とのことであった。私には選択肢はなかったので早速5時間の手術をしそれを取り除いてもらった。一ヶ月間の間入院したが身重の身体で女房が付き添ってくれた。
そうこうしているうちに出産の準備に取り掛からなければならなかったが数軒ある産婦人科医の門をたたいたがガイジンということで皆丁重に断られた。私はそのうちのオヤジの友人という医師に再び直談判し、是非とも出産にたちあって欲しい旨懇願した。「分娩中に英語で喚かれても困ってしまうから、ご主人が最初から最後まで分娩室に入ってくれるなら引き受けましょう」ということになった。いまでこそ夫が出産に立ち会うことはあまり珍しいことではなくなったと思うが30数年前の日本の田舎では稀有なことでもあっただろう。
陣痛が始まってからかなりの時間が経ちオフクロと二人で女房を励まし続けた。そして分娩室に入ってから息子がこの世に第一声を上げるまでの時間の長かったこと、私は精魂ともに疲れ果ててしまった。医師や看護婦の頑張れという日本語、私のハングインゼアという英語の掛け声が交じり合った奇妙な出産風景ではあったが、新しい命の誕生がかほど荘厳かつ厳粛なものだとは思わなかった。
その時まさに東の山から朝陽が昇り始めた。私達夫婦は今誕生した息子を抱えながら、東方より来るその光が山の向こう側それも遥か太平洋の彼方にあるアメリカから発せられてきたような幻想に陥った。今回ほど日本や日本人の素晴らしさを感知したことはなかったが、やはり私達の未来は東方にあることを再認識したのである。辛いことの多かった一年であったが、人は試練に耐えた分だけ成長するとの信念もあったし、<花の咲かない冬の日は下へ下へと根を生やせ>という先人の教えも大きな励みとなった。
生後4ヶ月の乳飲み子を連れ私達は再び機上の人となった。これから東の国でどんな未来が待っているのか想像さえ出来なかったが、私達の座席の下に置かれたダンボール箱に入れられた乳飲み子は、鳴き声一つあげずまるで夢見るが如く眠り続けたのである。アメリカに到着してから暫くしてこんな女房の手紙を和訳した覚えがある。
「日本滞在中に私達夫婦並びに息子への多くの皆様方の温かいお心遣いに対し、私はなんと御礼を申し上げてよいやらその言葉を知りません。どれもこれも皆心打たれる思い出ばかり、過分すぎる程のご親切やご援助をいただきましたこと、美しい国日本とともに生涯忘れることは出来ません。本当の日本と日本人の素晴らしさを知った今、私がこの夫を選び日米の架け橋としての息子を授かったことは誠かけがえのない誇りであり幸せでもあります。本当にありがとうございました。地球は果たして大きいか、と問われたら私達は否と答えるでしょう。何時の日か皆様方のお越しを三人で心よりお待ちしております。」